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「前に饗介に言われたことがあったわ。怪物と対峙する者はその過程で自らも怪物とならぬ様に気をつけねばならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」 「ニーチェの善悪の彼岸ですね」 「そう。2年前までは私もそう思っていたけど、最近私はこう思うの。怪物と対峙する者は、その怪物をやっつけて人間に戻してあげなければならないって」 「何ですかそれ、寧衣良みたいなこと言って。また海外ドラマでも見たんですか?」  江流久は冗談混じりに笑いながらも、香織里の言うことに胸を傾けていた。 「いい?江流久くん。人間にとって一番大事なのは心よ。どんなに悲しくたって、辛くたって、死にたくなるほど嫌なことがあったって、人は生きていかなければならないの。そして人は一人で生きていくことなんてできない。支え合える誰かがいてくれるだけで、強くなれるのよ。だから私たちは犯人と向き合わなくちゃいけない。深淵を覗く時は、心の最も大切な部分に触れているのだから、相手にも心を開かないと」 「……香織里さんらしいな」 「……実はね、江流久くんが刺された直後、怪物になりそうだった私を助けてくれたのは饗介なの。だから、私は一人で生きて馬鹿みたいなことを続けてるあいつのことも救いたいの」  香織里の大きな瞳が滲んでいくのが見えた。  スマートフォン越しだと言うのに、香織里の悲痛な気持ちが伝わってくる。  心の強さを測る指標があれば、きっと香織里はそれが振り切れるほどの強さをもっているだろう。  だが、それでもやはり弱さも抱えていて、ふとした瞬間にそれが顔を出す。  どこにだって完璧な人間などいないのだ。  だからこそ、人は誰かと心を通じ合うように、通い合うようにいつまでたっても未完成なのかも知れない。  欠けたパーツを補い合うように、人は人を求めているのだろう。 「……そうですね。俺もきっとそれを望んでいるんだと思います。また、三人で飲みに行きたいですね。結局、焼き肉も連れて行ってもらってないですし。おっと、もう一人追加してもいいですか?置いて行ったらまたギャンギャンうるさそうだから」 「もちろんよ。あー!私も早く恋人作ろうかなぁ!」  涙を指先で拭いながら、香織里はクスリと息を漏らす。 「まずは暴力的なところ直さないとですね」 「あーー!江流久くんも早くその性格直しなさいよ!まったく!」 「はいはい、自覚してますよ」 「…………江流久くん、今回の事件の犯人も。救ってあげてね」 「えぇ、もちろんです」  窓の外には凍てついた風と雪が吹き荒れていると言うのに、この部屋の中は心地よい暖かさに溢れている。  どこか懐かしいこの温もりを感じるのは、三人で未来を誓ったあの日の夕方に再び心が繋がったのかも知れない。  そう思い脳細胞を働かせる江流久がスマートフォンの画面越しに香織里と目が合い、お互い微笑みを送ったその時、突然廊下から寧衣良の叫び声が聞こえた。
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