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森の中の小道を歩きながら、こはるは大きく深呼吸をする。
母が言うには、こはるは少し抜けているお兄ちゃんっ子の妹らしい。学校のクラスメイトからは、明るくて優しいお姉さんみたいな人だと言われた。
お世辞ではなく本心で言っているのなら、こはるは自分じゃない誰かをちゃんと演じられているんだと思う。
ひんやりとした朝の空気を感じながら、どこまでも小道を進んでいく。このまま進み続けたらどこにたどり着くのだろう。どこでもいいから、ひとり静かに落ち着ける場所に行けるといい。
少しずつ日が高くなり始めて、歩くほどに肌はじんわりと汗ばんでいった。
それでも、別荘に戻ろうという気にはなれない。もうちょっと、もう少しだけ遠くへ、そう思いながら森の奥地まで足を踏み入れる。整備された小道はだんだんと細くなっていき、背の高い雑草が行手を遮るように飛び出して、こはるの足をくすぐった。
うっとうしくなって、伸びた雑草を踏みつけるように歩いていくと、何か別のものを踏みつけた感触がサンダル越しに伝わる。
見ると、サンダルの裏にはつぶれたイモムシが張り付いていた。こはるはそのままサンダルを地面に擦り付ける。土の上に、緑色の液体がじんわりと広がっていった。
気分がスッと落ち着いていく。かすかに風が吹き、肌に浮く汗が冷えていく。何も考えずに歩いていたけれど、立ち止まると急に、あたり一面の木々が存在感を伴って視界に入ってきた。
まるで、自分一人だけがこの世界に存在しているような気になる。無性にいらだちが込み上げた。
・・・そろそろ戻ろうか
そう思って後ろを振り向くと、来た道の先にひとつの黒い影が見えた。突然のことに驚き、鼓動が速くなっていく。暑さとは違う汗が額に浮いた。
・・・あれは、なに?人?
音も立てず、黒い影はただ佇んでいるだけだった。じっと息を殺して獲物を狙う、狩人みたいに見えた。
うかつに声も出せず、動けずにいると、黒い影はゆっくりとこちらに近づき始める。黒い影が目の前まで近づき、それが黒い帽子を目深にかぶり黒いTシャツにスラックスをはいたひとりの青年だとわかるまで、こはるはじっと見守るしかできなかった。
「・・・こんなところで、何をしてるの」
青年の声は穏やかだった。けれど、こはるを警戒してもいるようだった。不審者じゃなさそうだと感じ、こはるは口を開く。
「散歩をしていたんです。ぼうっと歩いていたら、いつの間にかこんなところに来てしまって」
「そう」
怯えた声を作りそう言うと、青年の警戒は薄らいだようだった。
「ここは私有地だよ。わかりづらいけど、あっちに看板が立っていなかった?」
こはるは首を横に振る。青年は腰に手を当て、ため息をついた。
「草が伸び放題で、よく見過ごされちゃうんだよね。まあでも、しょうがないか」
青年は帽子を外し、へなりと張り付いた髪をかき上げた。こはるは思わず目を見開く。
光を吸い込む、薄いグレーの瞳・・・
青年はこはるを見つめ返し、不思議そうな顔をする。
「どうかした?」
「いえ・・・」
「あ、そう」
キラキラと光を反射する切長の瞳が細められ、青年は一瞬だけ、白けたような顔をした。人の視線を惹きつける者がよく見せる、なんとも気まずそうな表情。
この人は、自分が人目を引く容貌だと自覚しているんだろう。見惚れていると思われたのかもしれない。
いや、確かにこの青年に見惚れてはいる。でもこはるが目を逸らせないのは、目の前の彼がただ美しいからだけではない。
・・・写真の”彼と”、同じ瞳の色だ
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