22人が本棚に入れています
本棚に追加
「帰り道、わかる?」
こはるは黙ってうなずいた。青年は安心したような顔をする。
「そう。それじゃあ、はやく帰りなね」
青年は再び帽子をかぶり、こはるの横をすり抜けて遠ざかっていく。呆気に取られていたが、あわてて青年を呼び止めた。青年は少し先で立ち止まった。
「・・・まだ何か?」
青年の声は怪訝そうだった。なんでこんなに心臓が高鳴っているのだろう。この人は、”彼”ではないのに。
「あの、あなたの別荘はこの近くなのですか」
「・・・私有地だって、さっき言ったと思うけど」
青年の声が、また警戒した様子に変わる。なぜそんなことを聞くんだ、と言わんばかりに。
「でしたら、あの、とても図々しいとは思うのですけど、少しお水をいただけないでしょうか。歩きすぎて、疲れてしまって」
自分は何を言っているのだろう。
別に我慢できないほど疲れているわけではない。でもこの時はなぜか、この人との関わりをこのまま終えたくはないと思って、とっさに言葉が出た。
青年は、しばし黙った。瞳がわずかに翳る。こはるはなぜか胸騒ぎがした。
「君のとこの別荘は、ここから遠いの」
「たぶん。・・・一時間以上はかかると思います」
青年は再び沈黙する。
「・・・水飲んだら、すぐ帰る?」
「は・・・、ええと、できたら少し、休憩もさせていただけたら」
大きなため息が聞こえた。
「あまり長居はしないでね。人を家にあげるって、好きじゃないからさ」
こはるは胸を撫で下ろした。勢いよくうなずいて、青年の後につづく。
そこから5分くらい歩いた先に、大きな西洋風の屋敷が現れた。こはるの別荘よりも遥かに広くて大きかった。
屋敷の前には高級な外車が停まっている。けれど、屋敷の周りは草が生い茂っていて、車が通れるような道は見当たらない。近づいて気づいたが、外車は長い間雨風に晒されていたらしく、ひどく汚れていた。
青年は無言で、屋敷の入り口へと歩いていく。こはるも何も言わず、黙ってついていった。
青年が扉を開けると、中は埃っぽかった。立派な屋敷なのに、あまり掃除をしていないのだろうか。
奥へと続く廊下は、壁一面に細かな装飾がされていた。コツンコツンと、二人分の足音が静かに響く。
突き当たりの扉を開けると、中には大きな長テーブルと、左右に椅子が5つずつ綺麗に並んでいた。
「座って待っていて」
青年は隣の部屋に姿を消すと、すぐにコップとペットボトルに入った水を持って戻ってきた。どうやら隣はキッチンらしい。
「ありがとうございます」
立ちっぱなしだった足はじんじんと痺れていた。ゆっくりと腰掛けると、体の力が抜けていく。
青年は水を注いでくれた。こはるはペコリと頭を下げ、コップの水を飲み干した。空になったコップを手に青年を見つめると、大きなため息をついて再び水を注いでくれた。
こはるは笑顔を作り、また一気に水を飲み干す。
「・・・君さ、いいとこのお嬢様か何かでしょ。ずいぶんと人を使うことに慣れているよね」
そんなこと、初めて言われた。こはるは目を丸くする。
「そんなつもり、なかったのですけど。不愉快でしたかしら。申し訳ありません」
「気にしなくていいよ。金持ちって、みんなそんな感じなんだろ」
白けた声で、青年はつぶやく。こはるは不思議に思った。こんな大きな別荘を持っているこの青年だって、裕福な家柄ではないのか。
室内に沈黙がおり、何か話さなければならない気分になった。
「この別荘には、避暑でいらしてるんですか」
「ああ、そんなとこ」
会話はすぐに途絶える。また沈黙。まるで、居心地を悪くして、はやく追い出そうとしているみたいに思えた。
けれど、そんなことで慌てて帰るほど、けなげな性格はしていない。ゆったりと笑みを作り、青年に壁打ちみたいな会話を続けた。
「いつまで滞在のご予定なんですの?」
「決めてない」
「・・・こちらにいらっしゃる間は、どのように過ごされてるのですか?」
「ダラダラしてる」
「・・・・・・東京とちがって、涼しいですね」
「そうだね」
「・・・」
さすがにイライラして、こはるは口をつぐんだ。気を紛らわすようにふっと息を吐く。
「それだけしゃべる元気があるなら、もう体力も回復してるんじゃない?」
青年は艶やかにほほ笑んだ。
最初のコメントを投稿しよう!