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「こはるちゃん、体調大丈夫?」
部屋のドアをノックする音。こはるは舌打ちをしそうになりながら、何とかか弱い病人のような声で返事をした。
「まだ少し気分が悪くて」
「そっか。何か食べた方がいいと思ってリンゴむいてきたんやけど、しんどいかな」
青年と出会った日の夜、こはるは歩き疲れて熱が出たと嘘をつき、ひとり部屋に閉じこもっていた。
「そうなの。うれしい。ちょうど何か食べたいと思っていたの」
「ならよかった。部屋、入ってもええかな?」
こはるが明るい声で返事をすると、兄の婚約者のかすみが扉を開けた。栗色のショートヘアのかすみは、人懐っこい笑顔でひょっこりと顔をのぞかせる。
静かに扉を閉めると、食べやすいようにカットされたリンゴの皿をそっとテーブルの上に置いた。
こはるはゆっくりと体をおこし、かすみにとびきりの笑顔を向ける。
「ありがとう、かすみお姉さま」
「呼び捨てでええよ。お姉さまって、慣れへんから」
かすみは照れたように笑った。決して美人ではないけれど人当たりがいい。こはるの両親から気に入られ、かすみと兄はお見合いを通して付き合うようになった。
「それにしてもこはるちゃん、今日はえらい遠くまで歩いたんやってな。旭くん、驚いてたで」
邪気のない笑顔。誰からも好かれるタイプの彼女を、こはるは一番苦手に思っていた。
「気がついたら、一時間くらい歩いてたの」
「散歩好きなんや」
「うーん、どうだろう。森の中が好きなのかも」
「森が好きって、こはるちゃんてメルヘンやな」
かすみがクスリと笑った。こはるの頭をさらりと撫でる。
「メルヘンなの、私?」
「だって、森って童話の世界って感じがせえへん?」
童話に興味がなかったので、あまりぴんとこなかった。
「散策が好きなんやったら、自転車で回ったらええんちゃう。歩くより疲れへんし、遠くまで行けるやろ」
「そうだけど、自転車はここにないし」
「あるよ。今日買うてきてん。駅の近くの自転車屋さんで」
二台買ったから、好きな時に使っていいとかすみが言う。自転車があるなら少し遠くのカフェまで行けるかもしれないと、こはるは嬉しくなった。
素直に喜ぶのは嫌だったけれど、がまんして笑顔を作る。
「そうね。使わせてもらうわ。ありがとう、かすみお姉さま」
「ええって。ほんま可愛ええなあ、こはるちゃん」
かすみはこはるの頭をくしゃくしゃと撫でると、お休みと言って部屋から出て行った。
ひとりになると、後から疲れが押し寄せた。誰かに気をつかうと、いつもこうなる。
こはるは癒しを求めて、スマホを手に取り”彼”のフォルダを漁った。
”彼”の姿が目に入った瞬間、心が浄化されていくのを感じる。何度見ても飽きのこない美しさ。うっとりと眺めている時間だけが、こはるの心を解放してくれる。
高画質の写真を拡大しながらじっくりとめくっていると、過去に保存したとある写真が目に留まった。
それは、”彼”が壁にもたれて憂えた表情を見せている一枚だった。
一糸纏わぬ”彼”は、白濁に濡れた指を咥えながら瞳を潤ませている。何度見てもめまいを起こすような色気を振りまいて。
違和感を感じて、画像をさらに拡大していく。
”彼”のきめ細やかで透き通るような肌色が、淡いブルーの壁に溶けるように馴染んでいた。白い刺繍の施された壁が、まるで額縁のように”彼”の体を閉じ込めている。
写真を拡大する手が止まる。間違いじゃないことを確かめるように、食い入るように写真を見つめた。やがてこはるの内側に、静かな衝撃が広がっていく。頭は真っ白になった。
”彼”を彩っている背景の壁紙は、今日出会った青年の、屋敷の廊下のものとそっくりだった。
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