マスク・ド・おばさん

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 マスク装着が外出する時の必須となった。  ずっとマフラーを巻いているような状態だったので冬は良かった、温かい。そして初夏になり、鼻と口を温められているのはこんなに息苦しいものなのかと驚いた。出勤するだけでフーフーと息があがる。まだ六月なのにとても暑い。そして七月、更に暑い。  箱田繭子は常々、人間は情報量が多すぎると思っていて、人と会うとぐったりしてしまう事もしばしばあった。気をつかう以前に、情報量の多さを処理できないのだ。目だの、鼻だの、口だの、特に顔は情報が集中しすぎているので、失礼ながら目を合わさないように会話をする事もある。 「野菜だと思えば良いのでは? 知らんけど」  野菜は野菜で同じ形の野菜などないため全く解決方法になっていない上に、手間暇かけて栽培されている野菜に失礼である。  そもそも野菜だと思い込む方法は緊張した時の方法だ。  対面でしゃべると話が頭に入ってこないから横並びが良いというと「はいはい」と素直に受け入れてくれるが、情報量が多いのが困るという部分は友人にピンと来ないらしい。  生きにくさとは人それぞれである、と感じたものだ。  余談だが、繭子は自分に対しても情報量を減らしたいので鏡を見るのが苦手で、服も三パターンぐらいをぐるぐると着まわす。出来るだけ見慣れた状態を保っていれば、新しく情報を読み取らなくても良いからだ。とても安心する。  それがなんと、マスクを装着する事が必須の世の中がやってきた。  顔の半分がマスクで覆われ、顔の情報量が強制的に減ったのだ。  さらに、人と会う事を控え、自宅に居て外出を控えましょうというお達しまで出てきた。  夢のような世界である。  人間の選別が始まった状態で夢のような世界とは不謹慎だなと思う。  繭子が少し生きやすい世の中になったという事は、生きにくいと感じる人が増えているはずだ。  潔癖症の友人は世の中がマスクだ、消毒だ、という前から時間をかけて手洗いするのが普通である。繭子が、 「大きい声では言えないがこんなにこまめにしっかり手洗いした事ないから疲れてしまった。あんたは疲れへんの?」  と質問すると 「疲れる、疲れないという問題ちゃう。むしろいつも疲れている。ウイルスの動向は関係ない、世の中が自分の生き方にちょっと近づいただけや」  と言う返答だった。  なるほど、確かに。  マスクはともかく「外出を控えましょう」や「休業要請」は、繭子や潔癖症の友人でも不自然と感じる。繭子達は自主的に家にこもったり、自主的に消毒したりする生活に時間をかけて慣れていった。四十歳、経験上急激な変化はすごく負担がかかる事を知っている。  生きやすさとは人それぞれ。  それにしてもウイルスによってマスクや消毒液がなくなる事は予想できたが、ホットケーキミックスが品切れになるとは。順番に物資がスーパーから消えていくが、次に何が消えるか予想がつかない。次は寒天とかゼラチンが売り切れるかなと思っていたが、緊急事態宣言が解除されたからか品切れにはならなかった。  仮に私がこの事を題材に小説に書いたとしても、甘い物の材料がどんどんスーパーから消えていくSF小説になる気しかしない。  やはり夢のような世界である。  昔、平成の米騒動によりインディカ米が輸入された時、繭子はパエリアやチャーハンを作るにはむしろ良いのでは? とむしろ気に入って食べていたのだが、世間的にはイマイチだったのか見かけなくなってしまった。  残念でならない。パラパラして美味しかったのに。  あんなに品切れだったマスクや消毒液が店頭にあふれるように並べられている。  当時も、お米は「なくなる」と言われていたが、本当はなくなっていなかったのだろうなと、ぼんやり考える。  考えてもしょうがない、ないものはないのだ。  スーパーに行ったら今度はケーキシロップが売り切れていた。  残っているのはチョコレートソースと黒蜜シロップ。    うーん…この二択かあ。  選択しなければならない事が増える世の中はちょっと面倒くさいな思いながら、繭子は黒蜜シロップを買う事にした。
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