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前沢区のその他の史跡・伝説
◆大麻生野柵(史/擬定地・安倍氏・前九年 白山字内館? 未踏)
『陸奥話記』(解説参照)に登場する安倍氏の柵の一つ。前九年合戦(解説参照)の最終局面である康平五年(1062)九月七日、源頼義と清原氏の連合軍となった官軍に攻められて瀬原柵とともに陥落した。擬定地として白山字内館の上麻生城があった地があげられているが確たる根拠はない。また江戸時代に編さんされた『安永風土記』では、安倍館遺跡のある白山字阿部舘が大麻生野柵だと伝えているという。
典拠:「安倍氏の『柵』の構造」ー『交通遮断施設』の観点から」〔『平泉文化研究年報(4)』収録〕(羽柴直人∥著,2005.3)
◆白鳥村(史/擬定地・前九年・後三年 白鳥舘? 未踏)
『陸奥話記』によれば、康平五年九月七日に安倍軍を追う官軍がここを通過。
また後三年合戦(解説参照)の初期に清原真衡の館(具体的な場所は不明)を襲撃しようとした清原清衡と清原家衡の軍勢もここを通過し、四百余の家々を焼き払っている。四百余とはかなりの規模の村であり、真衡にとって重要な村だったゆえに焼き払われたのではないかとも言われている。
典拠:「安倍氏の『柵』の構造」ー『交通遮断施設』の観点から」〔『平泉文化研究年報(4)』収録〕(羽柴直人∥著,2005.3)
◆登満羽毛経塚(伝/遺跡・清衡 生母字檀の腰)
平安末期の経塚。清衡が北上川両岸に造営した経塚のうち東岸の経塚。考古学的な評価は不明。
典拠:『平泉への道平泉からの道』(広域歴史シンポジウムIN一関実行委員会∥編,2005.2)
◆姥塚(伝/秀衡 古城字姥屋敷)
秀衡の乳母の屋敷があり、その乳母を祀った塚があった。発掘調査が行われた際には、12世紀の井戸跡や“かわらけ”が見つかっている。
典拠:『平泉への道平泉からの道』(広域歴史シンポジウムIN一関実行委員会∥編,2005.2)
◆明後沢遺跡群(史/遺跡 古城字高代寺)
朝廷の陸奥統治の拠点の一つである胆沢城跡で出土する瓦と同じものが大量に出土するため古代の官営窯場ではないかと言われているが、12世紀後半の国産陶器,中国産陶器など<平泉セット>(※解説参照)も見つかっている。このため12世紀後半には奥州藤原氏と関係が深い者の居館となっていた可能性がある。
典拠:『岩手県の歴史散歩』(岩手県高等学校教育研究会地歴 公民部会歴史部会日本史部会∥編,山川出版,2006.12)
◆明後沢の泰衡遺児伝説(伝/泰衡 古城字明後沢)
古城の伝子孫阿部家の家系図によれば、泰衡の遺児秀安は、幼い頃は一族である樋爪太郎俊衡(紫波町の項を参照)に養育され、十四歳の頃に胆沢の地に潜み、さらに後に明後沢に住んだという。
典拠:『胆沢町史. 2 (古代中世編)』(胆沢町∥編,胆沢町史刊行会,1982.9)
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