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「あの人、昼休みのためにジャージ持ってきてんのかな」  知らねえよー、後ろの方から眠そうな声が聞こえた。本人に聞けば? 淡々とした別の口調も続く。昼休みは雨が降らない限り、相澤と藤谷の三人で屋上にいる。今日も然り。昼食を食べ終えた後、各々やりたいことをするのも恒例だ。二人は昼寝、そしておれは、屋上からグラウンドを覗くこと、だった。陽射しは容赦なく世界を照らしていて、シャツからはみ出る首筋や腕を絶え間なく焼いている。抵抗するように目を眇めて空を見上げれば、反論する気もなくなるほど雲一つない青空だ。  首筋を指でなぞると湿っている。春は終焉でもとても頑丈だ。死ぬ気など、絶対にない。この日は特別陽射しが強く、見下ろす先のあの人は、スーツからわざわざ着替えたジャージ、Tシャツ、それを捲ってノースリーブにまでしている。それなら最初からノースリーブを着ればいいのに。  六月に入れば、雨天も増えるだろう。校庭もけぶってしまう。景色が灰色に覆われてしまえばきっと、グラウンドで汗まみれになったあの人が、サッカーボールを追い掛ける姿はなくなる。生徒と一緒に、ひーひー笑って走る姿を、しばらく見れなくなる。 「つまんねえ」  まだ梅雨はいらない。つまらない。 「何がつまんねえの?」 「梅雨」 「はあ?」  グラウンドを見下ろす目線は動かさないまま、相澤の気配を感じる。ひょろりと背の高い彼が隣に来ると陰が落ち、幾らか高い温度が肩を過ぎった。あっちい、と一人ごちている。 「なんで梅雨が嫌いなんだよ、まあ俺も好きじゃねえけど。体がぺたぺたするし、気持ち悪いし」  それからあ、と続ける相澤を手で払った。もういい、と言う。彼は、いいの? と気にした様子は見せず、手摺に体を預けている。はなを啜るように一度笑ったので見遣ると、一瞬で察してしまう。 「なあ、シバ。おまえ、いっちゃんのどこがいいの? 性別はこの際置いといて、あいつ絶対ワルだね」  へへん、と鼻の下を掻く仕草に、思わず吹き出す。 「え、何? リアクションレトロ過ぎでしょ」 「うっそ。良くね? 昔のヒーローみたいで」  ふっと口を緩めてから、また校庭を見下ろした。彼が言った「いっちゃん」、その人をおれは毎日のように眺めている。「いっちゃん」はおれ達のクラスの担任教師「櫻井一郎」。名前の通り、性別はもちろん男性。おれはゲイだ。  彼のことをきちんと、「櫻井先生」と呼ぶ生徒は珍しい。おれはその奇特な部類の一人に入っている。生徒の大多数が相澤のように、「いっちゃん」だとか「いっちゃん先生」、そう呼ぶことが多かった。  櫻井先生の立ち位置は、校内の人気者だ。「いっちゃんこれあげるねー」と、調理実習あるいは調理部の女子たちの差し入れはしょっちゅうで、彼は苦笑しながらも会釈する。そして一言、「ありがとうございます」と照れくさそうに目元をくしゃっと緩めた。たまたま通りがかったときに聞いて、なんで? と疑問で立ち止まったからか目が合った。仕方なく頭を下げ、その場をすぐに離れた。  なんで敬語使うの? 「ありがとう」でいいじゃん、適当にあしらえばいいじゃん、と脳裏に残っている。確かまだ、二年のときだった。  三年になると担任として彼は教壇に立ち、おれたちに敬語を使う。丁寧に喋り、生徒の乱雑な言葉遣いに対して、時には注意を施した。その反面、昼休みになると童心に戻ったようにはしゃいで生徒と駆け回るのだ。やっべえそれ反則だろー、なんて同級生みたいに喋っているのも聞いたことがある。丁寧とぞんざいが混じり合う、なんだか不思議な言葉の掛け合いがずっと駆け巡る。あの人がグラウンドを駆けるみたいに。  ああ、こんなふうに言葉が使えたらおれも。  おれも、の続きは未だにわからないままだ。  グラウンドに目線を下げて黙っていても、相澤には沈黙というのものは存在しない。「いっちゃんのやつ、また女子からクッキーもらってた」だとか「腹立つ」だとか「はらたつのり」と、ぶつぶつ呟いて、一人で笑っている。全く面白くないから無視を決め込んだけれど、少し離れた所から「はらたつのり」と震えた声がする。藤谷だった。どうやら、くそ面白くない相澤のワードが、彼のどこかにヒットしたらしい。起き上がり、相澤に一直線に向かうと彼の頭を叩いた。ばちん、と気持ちいいくらいの鈍い音が聞こえて、こいつら飽きねえなあ、と他人事のように思う。 「いてえよ!」 「おまえらさっきからうっせえ! 寝らんねえだろうが!」 「俺だけのせいじゃなくねえ⁈ シバがまたいっちゃん見てるからじゃん!」  おれを指差し、自分は無実だと訴える相澤に溜め息を吐く。いつものことだろ? と返してまた、グラウンドに目を戻した。昼休みは残りあと二十分。櫻井先生はおそらく、十分前には校舎に入り、急いで現国教官室に戻り、そこで少しだけ涼んでからスーツに着替えるのだろう。もしも五限目の授業が空いていたら、水泳部のシャワールームを借りるのかもしれない。  未だに言い合っている二人を無視して沈黙を続けるおれに、なあ? と呼ぶのは藤谷だ。そちらを向くと、思い切り溜息を吐かれる。人の顔を見るなり息を吐くとは、こいつは失礼な男だ。 「あいつはマジ止めといた方がいいんじゃない? 絶対ストレートだし」 「だろうね」 「悪手だよ」  知ってる、吐き出した言葉は、温い空気に溶けたみたいに一瞬で消えた。藤谷は、おれと同じように目線を落としてしまった。おそらく彼は、相手は選べ、と言っている。 「シバ」 「なにー?」 「櫻井、結婚するんだって」  え? と言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。真横からざわっと風が抜けて、ざわっと体の中を追い抜いた。 「こないだ、ハゲ山と話してんの、聞いた」  へえ、と言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。ちなみにハゲ山は、五十二歳独身だ。さぞ悔しかっただろう。 「ハゲ山って現国の主任じゃん、報告してたんじゃねえかな」 「あー……。そいつは、おめでとう」  二人はぽかんと口を開け、そのあと騒ぎ立てたのは相澤だった。えー! マジかよ! シバおいってばおい! うん、うるせえ、と返したところでまた、グラウンドを見下ろした。櫻井先生が、校舎に戻る姿があった。昼休みが終わる、十分前だ。 「次の授業なんだっけ」  うーん、と唸りながら体を伸ばすと、掌が熱を一気に吸い込む気がした。 「えっと、すーがく」  相澤は、子犬が困窮を訴えるような目で見てくる。なんでおまえがそんな顔をする、と笑ってしまう。ぎゃんぎゃんうるさい大型犬が、きゅーんと口を結んでしまった。  グラウンドにはもう、あの人の駆ける姿は、どこにもなかった。あっさりと消えていたのだ、何も知らない間に。閑散としているそこは、砂埃が立ち込めているようで、ぼんやりと煙たい。  あっちーな、あつ。今日は本当に、暑い。 「最後です。課題テストはプリント掲示で発表します。日直は後で取りに来て、貼り出しといてください。えー……っと、柴木か。お願いします」  以上です、と櫻井先生が言うと、クラス委員が号令を掛けた。それを合図に、各々が好きな言葉を、好きな相手と交わし出す。カラオケ行かね? スタバ行こうよ、等々。おれは日誌を取り出し、机の上に置く。 「シバぁ、おまえ一人で行ける?」 「あほか、小学生じゃあるまいし。行けるに決まってんだろ」 「……じゃなくて」 「あーもうわかったから、部室行っといて」  相澤を手で追っ払うと、彼は何度か振り返りながら教室を出る。廊下を見ると、また藤谷に頭を叩かれていた。いてえよ! と聞こえたので、笑ってしまう。  日誌をぱらりと捲ると、昨日書かれていたのは「いっちゃん、明日もサッカーやろうぜ!」だった。返信は赤ペンで「楽しみにしています」とある。ものすごく違和感があった。だってあの人は、サッカーをするときは平気で高校生みたいな言葉を使うのだ。今日は、「それずりーだろー!」なんて言って大口を開けていた。定まらない言葉の差異に問答無用で惹かれ、心がぽつんと蹲る。  櫻井、結婚するんだって。  ばん、と叩きつけられるみたいに急に浮かび、ぎゅうっと目を閉じる。野球部がキャッチボールをやり始めたのか、特有の掛け声とグローブに打ち付けられる硬球の音が響き始める。リズムが良かったり崩れたり、不恰好な律動に、無理矢理体を委ねた。
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