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目を開け、ペンを持ち直し、今日は暑かったですね、と書いてみた。先生は昼休みの為にジャージを用意しているんですか? 続いて浮かぶのに、書くことは止めた。結局無難な言葉を書き綴り、椅子から立ち上がる。教室を出て、あの人がいる現国教官室に向かっていると、真横の窓から夕陽を受ける。じっとりと汗ばむほど、強い。気温が低下する気配は、未だに感じなかった。
「失礼します」
「お、柴木。お疲れ様」
教官室のドアを開けると、櫻井先生は右手を挙げた。明るい廊下から少しだけ薄暗い室内に入ったせいか、一瞬感じた目眩に目を眇めてしまう。彼の表情がうまく捉えられないまま、デスクまで近づいた。そこでようやく、先生の表情がいつもと同じ笑顔だとわかる。
「これ、課題テストの範囲です。お願いします」
「はい。貼っておきます」
「柴木は今日も、ギター弾くの?」
おれたち三人は、軽音部に所属している。ただ、軽音部とは名ばかりの、部員は三人、その上楽器を鳴らすのはおれしかいない。他二人は雑談係だ。
「ああ、弾きますよ」
彼は、そうですか、と言い、少しだけ表情を引き締め、日誌を開いた。
「きみの声は、いいですよね。なんていうんだろ、切羽詰まった感じで」
あ、ちょっと崩れた。笑んでしまいそうで、わざとらしく咳払いをする。どこかおぼろげな呟きに礼も言わず、筋違いにもジャージの件を思い出してしまった。櫻井先生を上から見下ろし、つむじの形を眺め、ああなんて、と思う。
おれが彼に恋をした理由はなんて、くだらないのだろう。
「櫻井先生って、昼休みのためにジャージ持って来てるんですか?」
「え?」
「屋上から見てるんです。おれら屋上で昼飯食ってるから、見えるんですよ」
彼は顔を上げ、そうですよ、と笑った。屈託のないそれに、釣られて笑顔になる。今度は誤魔化さなくても平気だった。必死ですよね、櫻井先生は言った。そうですね、としか返せなかった。要らない言葉を吐き出したくなくて、飲み込んだ。
教官室は、橙と灰色と、白熱灯の明るさが一緒になる。紛れて混ざって、窓の向こうに映る橙が反射する。またたきをしても消えない。ゆったりとした温かい静けさが、辺りを包む。この一瞬があまりにも特別に思えて、歌詞に書けそうだ。
はたとする。あまりにも独り善がりな感情に、勝手に気まずくなった。彼から目を逸らし、早口で、失礼します、と会釈する。ドアへ向かうと、柴木、と呼び止められた。振り返って櫻井先生を見た時にはもう、目が慣れてしまっている。目眩は起きない。
「新しい曲、楽しみにしてます」
起きるのは、目眩ではなく衝動。駆られる。ぐらりと、鷲掴みにされる。なんだろう、目眩じゃないのなら。揺れる、突き動かされる、腹の底が熱くなる、変になる。
「……櫻井先生」
「ん?」
新しい曲ができたら、言い掛けて、唾液と一緒に飲み込んだ。喉がぐっと痛々しく鳴った気がして、数秒ほど呼吸をするのが辛くなる。自分の言葉を口内で転がすのは、とても味気ない。抑えたくてもう一度、唾液を飲み込んだ。
「いや、なんでもないです。曲ができたら、言います」
「待ってます」
「失礼します」
一礼してからドアを開け、廊下に出た。今度は引き留められることはなかったから、ただただ黙々と、廊下を歩いた。陽射しの強さはそのままで、なぜだろうと疑問に思った。教室に戻り時計を見れば、あれからまだ三十分もたっていないと知る。光が弱まっていないのは当然だと苦笑した。掲示板に、受け取ったプリントを貼り、指で文字をなぞった。中間テストが終わったと思ったら次は課題テスト、学生の本分をこなすのも楽ではない。
「現国、92ページから150ページ……。長えだろ、これ」
呟いたそれは、曖昧な響きで誰もいない教室に反響する。なかったみたいに消えてしまって、夕陽の橙と一瞬にして混ざり合ったようだった。
一つ息を吐き、プリントを貼った壁に背中を預け、教卓を見る。そこにはいつも立っているはずの教師の姿はなく、閑散とした室内に入ってくる夕陽で照らされている。
「櫻井先生」
新しい曲ができたら、
「あんたに歌詞を書いて欲しいって思ってました」
うす甘い夢だった。もしかしたら、と甘い蜜を舐める夢だった。だからかろうじて手に持っていられた。けれどもう、それは見るのも居た堪れない。
渡り廊下の北側にある物置を借りて作った部室に、急にあの人がやって来たのは初春だった。担任になって間もなく距離感も掴めない、生徒に敬語を使って適当にあしらわない櫻井先生が。
なんですか? と出した声は、ひどく無愛想ではなかっただろうか。彼は、ギターの音が聴こえたから、と言った。続けて親指で廊下を指し、廊下歩いてたら、とくしゃりと顔を綻ばせる。彼はおれに近づくと、側に置いてある折り畳み式の椅子を広げて座った。そして、僕に構わないで続けてください、と促した。彼は静かに声を出す人だった。静かに聞く人だとも、思った。
彼はおれのギターを聴いた。歌を聴いた。人前で、仮に教師の前だとしても、歌うことを羞恥の対象とはしていなかったから、自然と声を出すことはできた。けれど歌詞だけがなかなか決まらなくて、詰まる。声にならない唸りを上げながら、溜息を吐いた。彼はまばたきをして、おれに聞いた。
「どうしたんですか?」
あ、また敬語。顔を上げると頭皮に感じた温かさに、窓の方向から西日が射しているとわかった。その微睡みに促されたのか、歌詞が、と率直に言葉を出してしまう。決まらない? 彼が問うたので頷く。熱に晒された首の裏が痒くて、指先でがりっと掻いた。
「綺麗ですね」
「え?」
彼の目が、一つしかない窓の向こう側にあって、瞼をしばたかせながら見ている。眩しいのだろう、陽が当たり、先生の黒い髪の毛を焼いていた。
「太陽が西の地平線に接するとき」
「なんですか? それ」
「日の入りは、太陽から地平線に触れる一瞬の時間なんです。ずっと待ってるのかもしれない、一日のうちの一瞬だけ、自分から触れても許される時間を」
好きなんだ。って、そのはにかんだ表情と言葉に、直感的に感じた。彼のような感覚で、彼のように時々遊ばせながら言葉を使って歌詞を書いてみたい。でも、それがうまくいかないから、焦る。せっつかれたみたいに苦しくなって、胸騒ぎが押し寄せる。
この人に歌詞を書いて欲しい。でも失恋決定。恋が始まったと同時に、終わりも見据えてしまった。不自然な笑みを不思議に思ったのか、櫻井先生は首を傾げた。おれは首を振る。あとに言葉を繋げない彼におれも問うことはなく、ただギターを弾き続ける。そして何気なく浮かんだ、つまらない言葉を繋げた。
「聴かせてくれて、ありがとうございました」
櫻井先生は最後、部室を出る際に必ず言う。おれはそれに、返したことがなかった。同じように、「聴いてくださってありがとうございました」と頭を下げたことはなかった。彼から目を逸らすみたいに伏せ、会釈するだけで。
部室の前に着き、ドアを開けた。がらがら、と砂を噛んだような音は一瞬で空気に溶け、室内は静まり返る。照明は点けっぱなしのまま、誰もいなかった。あの二人はコンビニにでも行ったのかもしれない。スマホを取り出し連絡の有無を確認してみたが、何もなかった。振り返ると、窓から夕陽が溢れている。眩しくて、何度も瞬きをした。視界がぼやけて、光が瞼の裏で散る。
陽が沈む手前の、この時間が好きだった。頬も唇も鼻も眉も、出っ張った部分が全部熱くなる。ぎゅうっと締め付けるほど強い光なのに、どこか儚げで侘しさと重ねてしまう。すごくいい、そこに立って欲しい。ここにいないあの人を、一瞬だけ重ねる。
部屋に入り、朝少しだけ弾いて置きっぱなしにしていたギターを手に取った。椅子に座り、鞄から楽譜とシャープペンシルを取り出して机の上に置く。
不意にドアの開く音が聞こえる。弦に目を向けたまま、おかえり、と心の中で呟いた。
「おまえらコンビニ行ってたろ? 土産ある?」
「ないよ」
顔を上げた。滲んで歪んで、うまく捉えられなくて、どうしようもない。
逆光じゃねえか、はらたつのり。なんちて。
立っていたのは櫻井先生で、全体に影が掛かっている。教官室で覚えた目眩をもう一度感じ、くらくらする頭を押さえた。
揺れる、この人を前にすると、おれは揺れる気がする。
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