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「良かった。まだいたんだ」 「いますよ。さっきから全然時間経ってないでしょ?」 「はは、確かに」  彼は俯いて笑うと、いつも通りに折り畳み式の椅子を広げ、隣に座る。そして、僕に構わないで続けて下さい、と言った。  また静かに声を出している。おれはそれを、頭の中に埋める。  指の腹がギターの弦を滑るように伝い、きゅ、と擦れて音が鳴る。鼻歌で音を奏でるだけで、言葉は発しない。歌詞を付けていないからだ。 「柴木は、ギター上手いですね」  言われた瞬間、指先が滑り、弦が擦れて妙な音が出る。手ひどく外した和音が、耳に触れて不快だった。 「え?」と疑問をそのまま、先生に投げた。 「上手いよなあ」  少しだけ崩れた口調、屈託なく笑う彼を見て、照明を消してしまいたいと思った。橙にも藍色にも群青にだって、もうなんにもかんにも照らされてしまえ、と願った。大好きな夕暮れと、大好きなこの人が、一つになればいいのに。  小さく首を振る。違う、と示す。  この人がおれを好きになることは、ない。  櫻井先生は、結婚する。結婚するんだって。  彼はもう一度、上手いよなあ、と言った。すぐに消えるほどか細く、なぜか沈む夕陽を思う。 「今日は歌わないんですか?」 「歌わないし、別にギターも上手くないです。これくらい練習すれば誰でも弾けますよ」 「そうですか? はは、嘘でしょ」  彼はけたけた声を散らし、足を組んで椅子に座り直す。また少しだけ崩れた口調に、昼休みを思い出した。ぎし、と古めかしく鳴ったのを合図に、もう一度ギターの弦に指を付けて適当に鳴らした。丁寧でぞんざいな言葉が、何も浮かばない。  なあ、誰かこの人に言葉を喋らせてよ。それを書き留めておくから誰か。  おれだとどうしても、要らない言葉をこの人に投げてしまう。喉につっかえている小骨みたいな感情を取り出して、ひどい言葉を撒き散らしそう。だから誰か誰でもいいお願い。 「歌えばいいのに」 「どうしてですか?」  心の在り方が定まらなくなり、おれの指は未だにギターの弦を弄っている。適当なメロディが、ずっと頼りなく室内に響いていた。 「言ったでしょ、柴木の切羽詰まった感じの声が好きなんです」 「ああ、でもダメですよ。おれのは、ダメです」 「何が?」  小さく唸り、首を捻る。彼の言うように、仮に声が良かったとする。けれど歌には言葉が必要で、その言葉が圧倒的に足りなくて、だから結局、詰まってしまう。上手く説明しようにもおれにとっては、なかなか難しい。 「何がっていうか、言葉です」 「言葉?」 「本当はもっと、丁寧な言葉を使いたいんですけど、上手くいかない。それだけじゃ物足りないしつまらないから遊んでみたいんですけど、それも上手くいかない。そんな感じです」 「へえ、なるほど」  だからおれはあなたのような言葉を、歌詞を、そう続けたかった。けれど言わない。おそらくずっと言えない。伝えられないならせめて、今のメロディが櫻井先生の頭の中で消えたらいいのに。引き出しを開けたら香る程度の浅い場所で、ひっそりと消えてくれたら。  指は未だ弦を弾き続ける。ぽろぽろ鳴るメロディは、どこへ向かっていくのだろう。 「柴木は以前から、僕に敬語ですよね? なんでだろうって思ってました。ちゃんと『櫻井先生』だし。他の生徒が『いっちゃん』と呼んでも、きみだけは違った」  突拍子もない問いに、笑ってしまった。彼はおれが笑う理由がつかめないのか、ぱちぱちと目をまたたかせる。 「なんでって教師に敬語使うのは当然じゃないですか。まあ、大勢のクソガキの中におれみたいなのがいてもいいでしょ。こういう生徒もいるんですよ」 「確かに」  彼は目を細め、ゆったりと微笑した。そのとき、彼の名前がスピーカーから流れ、「至急職員室に」と続く。指を止め、ギターから右手を下ろした。ぶらぶらと、空中で揺れている。指の間から抜ける空気が、やけに渇いていた。 「あれ? なんかしたかな」  早口で言いながら櫻井先生は立ち上がり、はたして焦ってはいないのか両腕を伸ばし、思い切り伸ばしている。うーん、と唸りながら伸びる体に、あの覚束ないメロディが染みていますようにと祈る。 「じゃあ行きます」  彼は静かに声を出し、ドアの方へ向かった。逆光もなく、彼の体が影に包まれることもない。光が弱まってきている。  先生、櫻井先生。 「先生!」  彼は振り返った。おれは何を、何を。だめだ喋るな。 「先生、結婚、するって、聞いたんですけど」  口を閉じた。  どうして。  なんで。  違うでしょそれ。  自分自身に問うてるんじゃない。あなただよ櫻井先生。なぜあなたが眉を寄せ、おれをじっと見つめ、口を結ぶのか。なぜあなたがそうして、狂おしそうに表情を歪めるの。  どうして? っておれが聞けないのを知っているなら、あなたはずるい。 「あー、バレちゃいましたか。そうなんです。来年の三月末に」 「そう、ですか」 「はい」 「おめでとうございます」  櫻井先生は目を伏せ、口元を緩ませ、夕陽が沈む直前の一瞬を切り取ったような侘しさを滲ませる。 「きみはまだ、ここにいるんですか?」 「はい」 「いつまで?」 「陽が沈むまでは、います。夕陽が……」  あなたが、櫻井先生が、 「好きなので」  そうですか、と櫻井先生はおぼろいだ表情と口調で言う。 「僕も好きです。夕陽」  ああもう、きっと陽が沈む。あと少しで。一瞬でいい、僅かでいい、触れても許される時間をおれにください。 「聴かせてくれて、ありがとうございました」  そう言い残して彼は、出て行った。窓を見ると、空が順に闇を纏っていくのがわかる。色が変わり、夕陽が沈んでいき、それを今、見届けている。初めての日と同じ言葉を残して、同じようにあの人は去って行った。  急に引き戸を擦る大きな音がして、そちらを見ると思った通りの二人が立っている。 「シバ! さっきいっちゃん来てたろ⁈」  パイプ椅子から立ち上がり、帰ってきた彼らに近づいた。二人とも手にビニール袋を持っていて、それはいつもの量じゃない。 「食い切れねえよ、なんなのその量」  はは、と笑うと声が滲んだ。 「いやー、失恋パーティーっつーか、なあ?」  相澤は藤谷を見た。 「失恋とパーティー結びつけるおまえみてえなパリピが俺すげえ嫌いなんだよな」 「は? パリピみたいな顔してんの自分じゃん?」 「どんな顔だよそれ!」  言い合っている毎度の光景を眺めながら、また言い忘れた、と悔やむ。 「あーあ。おれ、笑えてたかなあ」  え? と二人同時に聞いた。 「今日、けっこう話せて。たんだけど、最後また、言うの忘れるし」  押し黙る二人に、言い測れない心のうちを見つけたように思う。仮に先生も同じだったとしても、おれには知る由もない。明日も、明後日も、ずっと。 「とりあえずまあ、土産」  藤谷からコーヒーを差し出され、受け取ったそれはよく冷えていた。つめて、と言うと、二人は笑った。 「ありがとう」  櫻井先生、ずっと聴いてくださって、ありがとうございました。 了
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