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【3】
カンファレンスルームを出た僕と由香さんは、病院に併設されたカフェへとやってきた。城之崎からあんな話を聞いた後なのだ。なるべく、病院っぽくない雰囲気に触れていたかった。
適当なテーブル席に腰掛け、僕が眠っている間の話、それから抜け落ちた由香さんについての話を詳しく聞いた。目覚めた時に由香さんがあまりにも心配そうな顔をしていたからどれだけ眠っていたのかと思ったが、僕が倒れてから進んだ時間はほんの一日くらいだった。
とびきり驚いたのは、由香さんはどうやら僕の彼女で、僕らは付き合ってひと月くらいになるらしいということだ。昨日は僕の部屋で由香さんの作る昼食を一緒に食べる約束をしていたという。それを聞いて、頭の隅にいる冷静な方の僕が、なるほどだから最後の記憶が掃除をしているところだったのかと一つ納得した。
それにしても、まさか由香さんとお付き合いしていたとは。彼女に関する記憶のない今、あまりにもぴんと来なくて申し訳なさがとにかく押し寄せてきた。
「え……っと、尚人さん。あまり気を落とさないで……ください。きっと私のことも、そのうち思い出しますよ」
アイスコーヒーの氷をストローでつつき黙り込む僕に、由香さんが明るい声で話しかけてくれる。
「そうだ!」
なおも顔色の晴れない僕に、由香さんがパンッと手を胸の前で合わせた。
「明日には退院できるみたいですし、早速デートをしてみるって言うのはどうでしょう? 忘れてしまったものは仕方ありません。幸い付き合って間もなかったですし、もう一度、私たちの関係をやり直すというのはいかがですか?」
「そう……です、ね。では、とりあえず明日、デート……してみましょうか」
そうして僕らのやり直しデート一回目の予定が決まった。
「ふふっ」
ようやくグラスの氷から顔を上げた僕に由香さんが柔らかく笑いをこぼす。
「なにか、おかしいことでもありましたか?」
「いえ。おかしいというか……。尚人さん、敬語だから」
彼女に指摘されて、思い至る。
「普段、僕はあなたにどんな話し方をしていました?」
「名前は呼び捨てで、ため口でした。ちなみに私は尚人さんより八つ年下なので、敬語、時々ため口。良かったら、前みたいに話して欲しいな……なんて思ったり」
「わかった。こんな感じでいい? 由香……さん。ごめん、さん付けだけゆるしてくれるかな」
名前を呼んだところで照れてしまって頬を火照らせると、由香さんは「わかりました」といってクスクス笑った。
眠っていた僕にずっと付き添い、彼女のことだけすっぽりと忘れてしまっていることがわかってもな寄り添ってくれる由香さん。彼女が明るく優しい人で本当に良かったと思ったし、記憶をなくす前の僕がなぜ彼女に惹かれたのかも、このほんの少しの時間だけでもなんとなくわかるような気がした。
これならば、記憶が戻るかどうかにかかわらず、前を向けそうだ。
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