【5】

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【5】

 退院からひと月が経った。  由香さんの記憶以外に問題がない僕は数日で仕事にも復帰し、今はもう前と全く変わらない生活をしていた。少し引っかかったのは、先輩から毎月休むなら先に言っておけと小言を食らったこと。そんなに毎月だったっけと思い出そうとしたが、記憶はなぜか曖昧だった。しかし、確かに勤務簿にはだいたいひと月に一度、有給休暇の文字が刻まれていた。この日、僕は何をしていたっけ?  水族館デート以降も彼女とは互いの休みが重なる週末に、買い物へ行ったり映画を見たりと恋人っぽいデートを重ねていた。自分で言うのもだが、由香さんとの関係は非常に良好、だと思う。  今のところ手を繋ぐまでにとどまっているが、もしや――なんて。  デートを重ねるごとになぜだか彼女へは恋人、というよりももう家族に近いような親しみを覚えていた。これも失われている記憶のせいなのだろうか。実は覚えていないだけでプロポーズも近かったりして、なんてことを思い、顔がにやけてしまった。  水族館から始まった僕らのやり直しデートも今日で四回目。彼女と相談した結果、今日は僕の家で彼女の手作りランチを食べることになっている。飲み物も何種類か用意してあるし、テレビのネット接続も良好。食後のまったり時間に予定している動画鑑賞も問題ないだろう。食材は彼女が買ってくると言っていた。 「後は……簡単に掃除するか」  物が少ないおかげで部屋は普段からあまり散らかることがない。少し散らばっている郵便物や所々積もったほこりを落とし掃除機をかけた。  空気の入れ換えをと、カーテンと窓を大きく開ける。  まだ朝の空気を僅かに残した午前中の日差しが網膜を照らす。  ちりり、と、こめかみの奥がしびれた。  瞬間、脳裏に早送りの映像で映し出されたのは、なぜ忘れていたのか分からないくらいに当たり前だった過去の記憶。  吐き気がして立っていられず、窓枠を手でつかみ床に膝をついた。 「なんだ、これ」  ぐらぐらする頭に駆け抜けるのはすっかり忘れたと思っていた両親が離婚する前の思い出。仲のよかった父と母。幸せそのものみたいな四人家族。年の離れた妹の――妹の、顔? 「なんで、こんなことを忘れていた?」  僕の記憶の欠落は、全て、仕組まれていた?  頭の中で全ての失われたパズルピースがあるべきところにはまる音がカチリ、カチリと小気味よく響く。  目覚めた瞬間の心配は、記憶の確認。  城之崎から聞かれるまで由香が僕の名前を呼ばなかったのは、僕自身のことまで忘れていないかを確認するため。  心理テストのような手際のいい質問は、記憶確認の続き。  妙に僕に詳しいのは、僕らはかつて互いに一番近いところにいらから。  ひとつはまり始めると、次々と抜け落ちたピースが降ってきてははまっていく。 「――……尚人さん? チャイム鳴らしたんだけど出なかったから……」  背中にかけられた声に心臓が冷える。僕は、この声の主を、知っていた。 「……ゆ、か?」  振り返り震える声で名前を呼ぶと、彼女のははっと目を見張り「まさか」と口にした。  互いに何も言葉を発しない一瞬の沈黙。僕は何も言えずに、ただ恐怖と疑問を感じるばかりだった。そしてそんな僕の様子に、由香も僕が記憶を取り戻したことを悟ったらしかった。 「はー。今回はうまくいくと思ったんだけどなぁ。ま、もう一回やり直せばいいだけどさ? はぁーあ。これ何回目だっけ? そろそろデートする場所も尽きそうだよ~」  現状を理解出来ない僕の方に、由香が一歩ずつ近づいてくる。片手をポケットへ入れ、何かをつかんで取り出す。指先に挟まれていたのは、糸に繋がった五円玉。  まさか、嘘だろう……。 「じゃ、お兄ちゃん。また、病院で会おうね」  目の前で五円玉が左右に揺れる。パチンとひとつ、指を鳴らす音がした。  薄れ行く意識の中で僕の耳がなんとか捕らえたのは、由香の発する狂気の声。 「ふふっ。お兄ちゃん、だぁ~いすき。だから全部、忘れてね?」
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