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   ――――むかしばなしをしましょう。   オオカミがいました。天界にすむ、きれいな、きれいなオオカミでした。   けれど、みつかってはいけません。  ――――いいかい、人に見つかってはいけないよ。   あるとき、天界のオオカミは、のろわれました。   のろわれて、血のような、あかい、あかい色になりました。   あかいオオカミは、地におちました。   地におちたオオカミのゆくえは、だれもしりません。   みつかってはいけません。   みつかっては、いけません――――。  血のような赤い月だった。少女はひとり、足を進めていた。松明の細い火が、ときおりパチリとはぜる。それは、やや神妙な表情をしている少女の水色の瞳を照らした。  ――――しっかりしなくちゃ。  少女はそう思った。    自分はもう何年、この森に住んでいるというのか。いろいろに、注意が足りない。  日暮れがせまっていたのに、もうちょっと、もうちょっとと落ち葉や枝を拾っていたのがいけなかった。結局、松明ともともと持っていた(かご)で両手はふさがり、苦労して集めたものをその場に置いて帰るはめになった。さらに、集めたものをなにをつかって持って帰るつもりでいたのだろう。背負いの道具を最初から身につけていなかった。  角灯もなく、集めた枝で松明をつくらなければならなくなったときは、己の抜け目はいよいよきわまった気分だった。  そう考えると自然、足の運びは緩やかになった。少女は、はあ、と肩を落としてあたりを見まわした。  いや、見まわすといったところで昼間のように木々の輪郭がはっきり見えるわけではない。それに昼間であっても、この森の木々の葉は重く、厚い。水のせせらぎも、雫につどう光も、ときとして息をとめる。葉からおちるひと雫の瞬きでさえ、ゆるさないとでもいうように。  少女は、知らず光を見ていたらしかった。それは月だった。  少女の瞳は、水色から赤色へ。  目の端からじっとりと月の色に染められてゆくような気もちだった。  血がおのずと燃えるならば、こんな色かもしれない――――。  血のような月。  見つかってはいけない赤。  きっとこんな色なんだろう、見入られたように月へ上向く少女は、遠くでそう思った。  見つかってはいけない。  それはずっと昔に、聞いたことのある言葉だったという気が、少女にはする。 『見つかってはいけない』  いくぶん、目は(くう)をただよっていたらしかった。ふと、ぱちん、と音をきいた。  火の音か、と思った。次に赤をとらえていたからだ。だが火の赤ではなかった。ならば月の赤かとも思った。  違った。その赤は、三歩先の闇から二つ、じっとこちらを見ていた。。  ――――目、だった。  少女は悲鳴をあげた。と、同時に手に持つ籠と松明を放り投げるようにして落としていた。先に落ちたのは籠だった。落ちた先が悪かったらしく、中身の陶器がパァンと砕けた。 「! くるみ油がっ」  叫んだときには遅かった。必然とでもいうかのように、火がそれを追いかけた。とたん、地からゴウッと火がたった。一瞬にして浮かびあがったものがあった。  後にして思えばそれは、流れる血の色だったのか覚束(おぼつか)ない。ただ少女の瞳は、ひとつの獣を映していた。  火のなかには、血のような赤い目をもつ狼がいたのだった。 「そのまま、じっとしていてね」  少女が、狼の足にかかった罠を外す音だけが、あたりを支配していた。  火が燃えあがったのは一瞬で、落とした松明はほぼ無事だった。それを地面に刺し、狼の顔へ近づけて少女は手を動かしていた。獣に、なおかつ手負いのものに火を向けるという行為からか、申し訳なさそうな表情を少女は浮かべていた。  と、少女のその表情を狼は一瞥(いちべつ)したのだが、少女がこのときそれを知るよしはなかった。  狼は、罠にかかっていた。  片方の前足に、刺々しい鉄の刃がたっていたのだ。前足に食い込んだ刃とそこに付着する血の色は、痛々しい感情を少女にもたらした。罠にかかった当初は暴れたのであろう、罠の周辺の土はひどく荒らされていた。  狼の足元には、不幸にも、兎が放たれてあった。  さて、この場合の不幸とは、いったいなにを指してのものだったのか。兎か、狼か、あるいは少女か。そのことを知るものは、いま、この場にはいない。ただ、少女の水色の瞳は、一心に狼がかかった罠に注がれていた。  ――――どうしてわたしは、悲鳴をあげたのだろう。少女は考えていた。    赤い目を見た瞬間、獣がいるとは思った。だがそうであるならば、悲鳴をあげる必要はなかった。注意深く追い払うか逃げるかするすべを、少女がもたないはずはなかった。しかも相手は狼である。火を所持する人間に襲いかかってくるとは、思えなかった。なにか得体の知れない感覚が、自分をそうさせたのかもしれない。少女はそう思った。  獣の赤い目――それを目と知ってはいなかったが――を見たとき、自分はなにか、知ってはいけない地へ足を踏み入れてしまったような、そしてそれは身に危険を感じさせるような恐怖を伴った感覚で、少女に迫っているように思わせた。だが不思議なことに、目の前の獣はずいぶんと従順なようすである。  また、パチリと火がはぜた。そのことで狼が顔をふと背けたように、少女には見えた。  獣のそばに火を置いていることを、いまさらのように少女は思い出し、慌てたように目を狼の足元にもどした。  だから少女は知らない。火に顔を背けたはずの狼の目だけが、自分を見ていたことを。その目が、血がしたたるような色と爪牙(そうが)を宿してたことを。  よどみなく、少女の手は動く。そしていよいよ罠を外す段になって、獰猛な気配にとらわれる予感に、少女は震えた。  ああ、まったく自分は、注意が足らない――――。  思えばこの獣は、少女が出会ったときには、自分を見ていたのではなかったか。あるいはそれは従順などではなく、自らを罠にかけたもの――すなわちこの狼にとって、それは少女――を、襲うための機会をじっとうかがっているだけではないのか。  それは、おそろしい予感だった。  けれども少女は、罠を外した。  狼は喉を鳴らした。  パチリ、と火がはぜた。   と、火の揺らめきは、双方の瞳を克明に闇に映した。  赤色と水色。  少女は身を震わせて、目をかたく閉じた。  だが彼女が予期した衝撃は、いつになっても襲ってこなかった。 「あれっ……」  そうだろうとも。なぜならそこに、狼はいなかったのだから。  ぱち、とはぜた松明は、ただ少女の影をゆらした。  闇のなかにひとつの影があった。動くことはない。  その影がもつふたつの赤いものも、不気味なほど静かに瞬きした。  ――――水だ。  と。その影のものが。 「水が()る」  とその影のものはいった。 「なれば我は、ようやく手にできるか」  くくっ、と影は笑った。  残酷な牙が、闇にあって光ったように見えた。  
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