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九
わたしたちは、世界から忘れられたもおなじなの。語り継がれた名を、だれも憶えてはいない。水の民も、古き神々でさえも。いにしえの花の名は、ここでついえる。この、――――――で。――――――――
*
少女は見慣れぬ屋敷で目を覚まし、いくばくかの時は穏やかに過ぎた。それというのも、同郷の青年の介抱によるものであった。一時は錯乱し、夜中に何度も屋敷を飛び出す騒ぎを起こしたが、青年の手厚い看護により次第に落ち着きを取り戻していった。屋敷の中にほとんど人はなく、青年もたびたび屋敷を留守にした。少女は当初の警戒心も置き去りにしたかとみえ、青年の一挙一動に、風になびく稲穂のごとく己の感情をもまた左右させた。
青年の名をアスターといった。少女とおなじ、天のもとの無辜の臣民と語り継がれた水色の眸をもつ者であった。ある晩、屋敷にある池に少女が飛び込みを図ったことがあった。溺れた少女を青年は憂色に満ちた顔で救い出した。こんなことをしてはいけない、と青年は少女に労りを尽くすようであった。
陽が落ちると、二人は暖炉のまえでこれまでの己がいきさつを語り合った。青年は土地を渡り歩いたと言った。生活のためには何を惜しむこともなかったと。暖炉の爆ぜた火が、青年の目を赤く染めたことに少女は気づかなかった。
仲間をみつけたのだ、と青年は発した。悪いものを清算するために力を手に入れたのだと言った。あの惨禍について、二人はほとんど触れなかった。しかし青年は、もうなにも憂えることはないとそっと少女に囁いた。少女は青年の囁きに呼応して頷いた。されど、己の身を処することを忘れたわけではなかった。少女は尋ねた。青年が知るわけはないと無駄な希望をいだきながら。
青年の答えは否であった。少女は肩を落とした。父が遺したあの絵だけはどうしても取り戻したかった。少女の家が荒らされていたことに心当たりはないかとも尋ねた。青年の目が剣呑に細められた。
復讐したいかと青年は問うた。青年と少女の水色の眸が行き合い、暖炉の焔は盛った。
復讐? と少女は反芻した。青年はうっすらと笑った。自分は復讐すると、心底可笑しそうに青年は笑った。とくと見るがいい、と少女へ告げた。
次の満月を待つがいい、と青年は少女へ告げた。
少女の眸は焔を映していた。あの晩の、あの邂逅を想起していた。血がおのずと燃えるならば、あの月のような色であった。眼前に盛る火のようであった。少女は火へ手を伸ばした。青年がその手をやわらかく遮り、少女の手を包んだ。
「満月は――――――……、」
もう間もなくだとの青年の言葉を、赤い焔は舐めたようであった。
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