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  天のもの 地のもの あまねく精霊に祝福をうけし神でした。   水のようにさやかで 幽玄な 深遠なる力の ぬしでした。   神は あるとき うつくしい水の精霊をもとめました。   けれども水の精霊は 神をこばみました。   神はいかり狂いました。   我はあまねく祝福をうけしもの。福音をこばむとは なにごとぞ。   水の精霊はいいました。   ことわりをゆがめることは ゆるされません。   神であるがゆえ それはだんじて。   神の目には ほのおが燃えさかります。   笑止である。   神であることが これほど不明なことわりが 他にあろうか。   ならば神は、神などではない。   真実 この世に 神などいない――――――    滅びたのか、生まれたのか。万物の流転のうちに転生(てんしょう)したのか。永劫にも似た時のめぐりは、種の所在など根源から霞のなかへ隠してしまうのか。果たして神であったものとは何か。  滅び、生まれの遠大なくり返しであったのか。幾度くり返そうとも堕罪の証は消えぬ。生得(しょうとく)の報いとでもいうのか。(ことわり)はどこから生まれるのか。原初に神であったものとは何か。は、まことに理であったのか。  求めたものはひとつであった。ただひとつの水。安寧と咲いた花。  浅ましきものとは何か。下界の民か。理を外れた神か、理の欠けた神々か。  思考することの意味すらも問うてこなかった。それに気づいてすら、かような思索は大火にあたる煙雨もおなじであろう。ただ、もはや一切が永劫のなかに閉じこめられた夢の(はなし)のようだ………… *  あまり外に出ることのないようにと言いつけられていた。少女は、青年アスターの、己のそれよりわずかに薄い色の眸に、己の来し方の慰めを求めるかのようであった。されど、記憶の中の父の薄青の眸も、日増しにその色を濃くしてゆくように感じられた。青年を見つめるとき、少女は父を想わずにはいられなかった。  決意というほど悲壮なものではなかった。ただ自然、それは少女の中にあった。はやく、いかなければ……。  何かおぞましいものが、自分の身を脅かしに来ることを知っていた。それがなんであったかなど、どうでもよいと考えたことも憶えていた。  青年はあまり屋敷にいなかった。少女が暮らした小屋と屋敷がどれほど離れているのかは少女の興味の外であった。ただ、復讐、清算、満月という言葉が、意味のないもののように少女の頭の中を幾度も通り過ぎた。  玄関扉から屋敷を出た。とはいえ、少女の足で数十歩程度の前庭を抜け、おもむろに屋敷を眺めただけのことである。屋敷は、少女の小屋と同じような森に囲まれていた。比べれば、こちらの森は多少拓けているようであった。  屋敷の玄関先に胡桃の木が植わっていた。実はすでにほとんど落ちており、まばらに風にそよぐ緑が、一枚、また一枚と身を踊らせた。 “胡桃を植えようねえ”と祖母は言った。実がきちんと成るまでには、十年ほどかね。エンツィア、その頃にはもう立派な娘子だねえ、と。  陽がよく当たる場所に植えるんだよ、胡桃は大きく大きくなるからね。 “胡桃をとりにいくときは、とくに要心おしよ。いいかい、誰からも何からもみつかってはいけないよ” “おばあさま。みつかるって、なにから? 赤いオオカミ?” “赤いオオカミからも、ほかの誰からも――――――” 「おばあさま、お父さま、お母さま…………」  また一葉、枯れかけた緑が落ちた。  逢いたい? 逢いにいかなければ。 *    アスターは何か知っているのではないだろうかという直感は、故あってのことではない。彼の双眸(ひとみ)に底知れぬ(ほのお)をみた気がするというだけである。エンツィアは屋敷内をあてなく探した。望みのものが手に入らなければ、そのときはどうするのか。そのことの想像が、彼女に萌芽しはしまい。ただ、彼女は、望むだけ。  屋敷内はほとんど雑然としていた。経年のままに放っておかれた住まいそのものであるかのように、薄暗い。彼は“もうすぐだ”と言っていた。青年にとって仮住まいであるならば、この屋敷もまた捨て置かれる運命にあるのだろうか。所々、剥がれた壁紙やくすんだ手摺、埃の溜まった階段、朽ちたような扉は不吉な予兆を思わせた。   ギイィ……と押すともなく押した扉は、開いた。広くはない一人用の寝室のようであった。ひとが使う程度には清められている印象である。扉を開いた正面に窓があり、左手手前に衣裳棚、右手奥に寝台がある。(へり)には男物と思しき上衣が無造作にかかっていた。エンツィアの知る人物のもので相違なかった。 「……アスター?……」  エンツィアは青年の名を呼んだ。ギシ……と床板が鳴り、簡素な部屋をさらに寒々しくした。エンツィアは無意識に己が腕をさすった。今朝は青年の姿をみなかった。食堂に少女の分の朝食が慎ましやかに鎮座しており、そういうことは朝に夕に、ままあった。どこで食料を調達してきているのか、少女が思い至ることはなかった。彼女の身の内にあるものは、ただひとつである。  寝台横に備えられた両開きの家具があり、開くと書棚であった。ただし本はまばらで、触れると脆くも崩れ落ちていきそうな雰囲気さえあった。注目に値するものは何もなかったが、ふと一点の違和感に、エンツィアは扉を閉める手を止めた。埃が不自然に途切れた棚奥に手を伸ばすと、カタン、と微かに音がした。感触の違う部分に指をかけると、エンツィアの手はさらに奥に滑り込んだ。隠し扉であった。驚くべきことなど、なかったはずであった。そこに、彼女の望むものを見出さない限りは。古びて、折りたたまれたそれであるが、見間違いようもない。その紙を開くと、描かれている。  己が名と祝福の、夢幻の花。 「――――――――エンツィア」  時ならぬ声は、少女の見知った青年のものである。彼の重みをうけてギシリと鳴った床以外、この幽暗な空間に、そのとき音を立てるものはなかった。  
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