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  天のもの 地のもの あまねく精霊に祝福をうけし神でした。   水のようにさやかで 幽玄な 深遠なる力の ぬしでした。   神は あるとき うつくしい水の精霊をもとめました。   けれども水の精霊は 神をこばみました。   神はいかり狂いました。   我はあまねく祝福をうけしもの。福音をこばむとは なにごとぞ。   水の精霊はいいました。   ことわりをゆがめることは ゆるされません。   神であるがゆえ それはだんじて。   神の目には ほのおが燃えさかります。   笑止である。   神であることが これほど不明なことわりが 他にあろうか。   ならば神は、神などではない。   真実 この世に 神などいない――――――    少女は、眼前の光景に目を疑った。ここは自分の家ではなかったか、もっとも、家と呼ぶよりも小屋と表するほうがふさわしくある、立派なつくりではないものの、少女一人が暮らすにはその可否を言いたてる必要は感じないものであったから、なおさら、ここが自分の家であると認識するに少女は至った。だが目の前の有様は、なんたることであろうか。      数は少ない、が、壁に立て付けられた扉という扉はひらき、丹精してつくり貯めたくるみ油や乾燥させた薬草を入れた壷は割れ、その油の染みや薬草がこれまた丁寧に編みこまれた床敷きに広がり、その床敷きのうえにはこの小屋と少女に見合ったような慎ましやかな食器類が散乱し、この小屋の主たる者にくつろぎをあたえるための、ただ一脚しか置かれていない椅子は役割をうしなったかのごとく食卓机とともに投げ出された(てい)で転がっていた。  その無残といえる有様は、少女にあることを想起させたのだが、それは一瞬のことで、あまりの状況に少女がそのことに気づくことはなかった。  少女は戸口にへたり込んだ。 「どうして……」  その疑問は果たして引きとられた。  ギイ、と音がしたのは、もうひとつの部屋の扉からだった。浅はかなことに、その部屋の存在を失念していた少女は、のっそりと低く唸る獰猛な気配が徐々に近づくことに、力という力を奪われた。床をふむ音は意外にも軽く、けれどもそれが、あるものが持ちうる固有のうごきであると否定できぬことをしめしていた。  転がった食卓机の脚に、がさした。ひとがもつものよりも数段たかい熱が、少女の肌をぞろりと舐めたかに思えた。  ゆっくりと現れた気配は、確実に少女の姿をとらえた。その気配はことさら低く唸った。血のしたたるような色と爪牙(そうが)を、その目に宿して。  ――――手負いの狼!  少女は己の感じた疑問が間違いではなかったことを、ここにあってもっとも信じられない事象を目にすることで悟った。  つい三日ほどまえの晩に、罠に掛かった狼を助けたとき、なにか自分の身に得体の知れぬものが降りかかるような危険を少女は感じたのだ。少女の水色の双眸(そうぼう)はおおきくひらかれた。  あのときの狼が、きたのだ。自分を。少女はそう直観した。 「ああ……」獰猛な気配に身が震えたのは、正しかったのだ。なぜそのとき自分をすぐに襲わなかったのか、なぜ自分の住む場所を突きとめたのか、恐怖は嵐のように突き抜け散漫する思考は逃げる意思をなぎ倒していった。  そんな少女の様子に、狼は、に、と牙をみせた。そうして、。くつくつと、声をたてて。わらいは低くつづき、少女の腹の奥を響かせるほど重いものだった。 「これほどまでに、たやすいとはな」  背筋を氷の刃でなでられたような悪寒がはしった。狼がしゃべったからだ、いいや、己の危惧が確定的なものとなってしまったからだ。少女の身体じゅうの血を吸いとったかのごとくの獣の目が、少女を映していた。 「あ、あ」意味をなさない言葉が、少女の口からもれた。  のっそりと、狼は少女に近づいた。  ごろりと、狼の喉が鳴ったかにみえた。 「笑止である、神など、あまりに蒙昧(もうまい)ではないか」  牙がぎらりと光った。  少女の澄んだ水色の(ひとみ)と、狼の血のような赤色の双眸がからまっていた。
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