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三
オオカミがどうしてのろわれて地におちたかって?
それは、あした、おはなししてあげよう。
なんだい? どうしても、しらなきゃねむれない、だって?
しかたがないねえ、じゃあ、今夜はとくべつにおしえてあげるよ。
そのまえに、おまえがどうしてここにいるか、いえるかい?
……そうだね、村をひっこしたんだね。そう、……いい子だね。
どうして村をひっこしたんだい?
おとうさんと、おかあさんが、病気になってしんじゃったから……。
……そうだったね、つらいことだったね。
そう、おまえは、かしこい子だよ。
かしこい子だから、やくそくできるね?
いいかい、だれにも、みつかってはいけないよ。
エンツィア、いいね、******には、みつかってはいけないよ――――。
*
エンツィア、みつかってはいけないよ、とあれは誰の言葉であったのだろう。少女の記憶のなかで何かがゆらめき、それはそのまま水色の双眸に表れた。
その眸のゆらめきを、少女の周りを囲うようにゆっくりと床を踏む獣は見逃さなかったのだろう。ぴたりと足をとめ、くくく、とわらった。獣の眸もそのときゆれた。細められた眸から、血が滴ったかと、少女はさらに息を詰めた。
「血、が……」
「――――――血が流れるようであると?」
思わず零した声は、赤い眸の獣に拾われた。くすんだ灰の毛に、それはあまりに禍々しい色だった。両牙はぎらりと光り、獣のもつ高い熱が、少女の肌を舐めるかのようであるのに、彼女の指先はあまりに熱を失っていた。
「あ、あなたは……」
「我が何者であるかと、問うなどとまこと愚蒙なことよの。問うたところで汝がこの先、知り得た理解を活かすことなど能わぬというに」
くくく、と獣はまたわらった。それは少女の腹の奥に重く響き、ますます彼女を床に縛りつけた。恐ろしさのあまり掴んだ床敷につられてか、くるみ油の壷がどこからか転がり、震える少女の指先にあたって止まった。ああ、すべての壷が割れたわけではなかったのだと呼吸もままならず少女は思った。
カタカタと、自分の身体から音が発せられでもしているようだ。少女は目の前の、血を吸い取ったかのごとくの色の眸に、釘付けられたままだった。
「湖水の畔にかつてそれは在った。清けき眸の水の化身。我の眸に相応しき色。なぜならば我の眸は湖水にひたした紫玉のごとき色」
「紫……? だって、赤い色なのに――――?」
おもむろに語り出した獣に、それ以上は問うてはいけない、その先を知ってはいけないと何かが強く警告する。頭のなかで何かが爆ぜた。少女は小さく呻いて頭をかかえた。少女の指先で留まっていた壷が、コトリと角度をかえた。
どろり、と小さな壷から油が床敷に落ちた。いやにゆっくりと、それは広がっていった。
――――いいや違う、あれはもっと速かったはずだ。もっと、みるみるうちに、床に広がって……。
少女のなかで爆ぜた何かは、強烈な痛みをもたらした。鈍器で殴られたような衝撃は、間断なく少女を襲い、彼女はますます呻いた。
あれとは、なんだろう。
怒号、轟音、踏みしだかれた花、散乱する硝子、赤い火――――。
「かつては紫玉の色だった」
痛む頭のなかに獣の声が反響した。
「愚者どもの言葉では、呪われたなどと言う。可笑しくてならぬわ」
――――オオカミがどうしてのろわれて地におちたかって?
卒然、その声は去来した。だれの声だったろう、いつのことだったろう。
むかしばなしをしましょう。
オオカミがいました。天界にすむ、きれいな、きれいなオオカミでした。
けれど、みつかってはいけません。
ギシリ、と何かが床を鳴らした。
あるとき、天界のオオカミは、のろわれました。
のろわれて、血のような、あかい、あかい色になりました。
あかいオオカミは、地におちました。
地におちたオオカミのゆくえは、だれもしりません。
みつかってはいけません。
もう一度、ギシリと床は鳴った。
「あかい、オオカミ……」
禍々しいまでの血の色が眼前にみえた途端、少女は悲鳴をあげて床を蹴った。
――――オオカミはね、水をつかもうとしたんだよ。
エンツィア、いいね、みつかってはいけないよ――――
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