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五
わたし達の力の及ばないこととはわかっているけれどもね。天はときにこうも残酷な仕打ちをしてくれる。これが理だというのか、なぜこの子が、唯一のこの色を選んで生まれてきてしまったのか。われわれが一体なにをしたというのだ。ただその身に受け継ぐものがそれほどに罪だとでも。
……せめてこの命の芽は摘まれてしまうことのないよう授けよう、わたし達にこのさき何事が降りかかろうとも。
稀なる色をたたえし子よ、いにしえの花の名を贈ろう。
千の祝福を。万の喜びを。湖のほとりに咲きし水色の夢幻。
神に愛されし夢、ゆえに神ですらつかめぬ夢、よもや俗世のものに摘まれようはずはない。
――――うつくしき花、エンツィア。
***
突如、首がもちあげられたと感じたつぎには、またも土に顔を打ちつけた。獣は少女の両肩に爪をかけたままさらにその痩身に重みを掛けた。痛みに呻く間もなく湿った息が少女の着衣をかすめ牙がそれを引き裂いた。
夜気が少女の背筋を舐め、四肢は硬直し彼女にあたえられるのは土の冷たさと悲惨な現実だった。
茫洋とした境地は打ち破られ、なぜ、なにがと自分の身に起こったことをいまだ解することはできぬのに、本源的な恐怖がすで全身を支配していた。鼓動は総身を穿つほどであったが、少女は指の先ひとつすら動かす力をもたなかった。
唇も喉も音を生もうとはせず、ただ渇いていった。獣の息がますます夜気を濡らした。生あたたかい息が肩の掻傷にさわったとき、少女の目からころりと涙がおちた。
自分がなにかから逃げてきたという憶えは、このときまで遠く隔たったものだった。
みつかってはいけないと、ずっと昔に聞いたことのある言葉を頭のどこかでよぎらせはすれども、それは遠い月をみあげるような、ここではない地を想うような昔語をまどろみのなかで聞くような、少女の身には与り知らぬ世界のことだった。
だが、自分の身に圧し掛かるこの獣と遭遇した夜からなにか自然ではなかった。
赤い月、血がおのずと燃えるような月、血の滴るような二つの目、その目をもつ狼。
荒らされた部屋にみた光景――怒号、轟音、赤い火、散乱する硝子に花――、直近に去来した誰かの声。
駆けても駆けても胡乱に広がる闇、背後に迫った息も継げぬほどの恐怖、この身を追いたてるような焦燥は誰の体験したものなのか?
いったい、自分は何者なのか?
ザザザ、と暗鬱な森の夜気がゆれた。引き裂かれた着衣の裾が風にむなしくはためいた。風は地を這い指と指の間、伏した少女の横顔の前髪にも抜けていった。
胡乱な闇は、不穏な残像を映しだす。それはもはや少女の身に起こった決定的な事実として少女を染めあげようとしていた。
手足、背中、首、唇、鼻、眸――――闇はじわじわと少女まで這いのぼる。
ぬっと現れたふたつの赤い目を少女はみつめた。赤い双眸はゆっくりと細められた。少女の全身の血がその双眸に吸いとられあまったものが地に滴りおちるとき、己の眸もまたその血に侵食されるのだと、おぞましい感覚に息を引き絞られた。
獣が鳴らす獰猛な熱が、その牙から漏れた。
見開かれた少女の眸から、また涙がころりと落ちた。
「……わたしを、たべるの……? どうして……?」
「――――供物に応えが必要か? 知り得たところでその理解を活かすことなど能わぬ――――、否、我の意図は汝を殺めることには非ず――――」
獣のその応えに、少女は風前の灯にある己の命の緒を少しでも繋ぎとめる術を見出そうとした。己に迫る闇から逃れたかった。
わたしは殺されるのではないのと獣に尋ねようとふたたび口をひらいたときだった。血の双眸をもつ獣は、ごろりと喉を鳴らした。そう耳に聞こえたときには、絶叫することもかなわぬ痛みが総身を刺し貫いた。
だがじっさい少女は叫んでいた。その叫びは人間の発するものとは思えぬほど気狂いじみたものだった。叫びが風を起こしたように夜気がどおっと唸った。衝撃に背が跳ね上がり少女の髪が四辺の木々の狂騒に巻きあがった。視界の明滅に追いつくことはできない――――もとより、色はない。
一拍、少女の鼓動は止まった。
臓腑がよじれるごときの衝撃は少女から時を奪った。
暫くののち、獣はくつくつとわらい生々しく湿った息を吐き出した。
「――――理由なるを授けてやってもよい。その鼓動が作用を果たしその耳が音を拾うているならば。我が求めたるは清けき水の化身――――、我の眸に相応しき色。手にするにはまず身の内に摂り込まねばなるまい。供物を犯して生き血を啜る……。思い知るがよい、愚かな神々よ。あまねくものより祝福をうけしは我、福音をもたらす至尊こそ我。かの至尊――――ふたたび手に入れようぞ」
血色の双眸、獰猛に剥かれた牙、不穏に脈動する肢体、生々しく呼気をゆらす流れる毛をもつ狼――――、暗鬱な夜気はいますべてを呑みこんでいた。
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