昔日

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昔日

 神々はもう二度と、うつくしい水の精霊を、赤いひとみのオオカミがみつけぬように、花を枯らせていったのです。      ながい永い、いくつもの夜がすぎ、いくつもの霜がおり、やがてあたらしい花は生まれ、いつしか滅びました。   それすらもう、いにしえのこと。   そして、いにしえの花の色をもつ民は生まれました。   草創の民は、この物語をつたえました。   水をもたらす民。天のもとの、無辜の臣民。   わたしたちは、その末裔―――― *  エンツィア、いとしいエンツィア……、そのひとは、そう呼んだ。  おとうさま、きょうも穂を刈るの?  そうだよ、とそのひとは答えた。  どうして?  冬をむかえるために。  きょうは、穂をひろうの? どうして?  冬を越すために。  おとうさま、ここに種をうえるの? どうして?  おまえが生きるために。  生きるために? どうして?    そうだね、いつか、別れなくてはならなくなるから。会えなくなるのだよ。どうして? それは等しくやってくるのだよ。でもね、こうしておぼえておけば、だいじょうだから。  おまえは、夢幻のものだから。神ですら、その存在を掴むことはできないから。  エンツィア、あの子は、夢幻だから。そう聞こえた。  あの子だけは逃がすんだ。我々が滅びても。なにかの足音がきこえた。  さけぶ声、おおきな音、バラバラになった花、あちこちにとんだガラス。  そして、赤い火――――。  暗い道を、走った。だれかに手をひかれながら。 “オオカミがきたの?” くるしくて、さむくて、足がうごかなかった。 “ちがうよ。でも、みつかってはいけない。けっして、みつかってはいけないんだよ” “どうして? 悪いことをしたの?” “悪いのは、わたしたちではないよ。……かわいそうに。でも、忘れてしまおうね。おとうさまのことも、おかあさまのことも、ぜんぶ忘れるんだよ” “忘れる? どうして?” “いいかい。ぜんぶ忘れても、これだけは絶対にやぶってはいけないよ。みつかってはいけない。だれにも、なににも。けっして”  みつかってはいけない。  だれからも、なにからも、けっして。    ――――暗い淵の花に、水が一滴おちた音がした。
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