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 はじめに見たのは、白みはじめた空であった。つぎに感じたのは、金属の冷たさであった。少女はいちばん薄い空の青に、ごく親しいひとを思った。 「おとう、さま……?」  そのひとはいつも、悲しみと慈しみを(たた)えて彼女をみていた。ただ少女は、いまはじめてその事実に向き合った。 “いとしいエンツィア”と、そのひとは呼んでいた。それが自分の名前であると、ようやく少女は思い至っていた。  父は悲しげであった。それは母も、祖母もそうであった。(みな)、いとしげに髪をなでてくれたが、それを見守る周囲のものも、(きた)るべきなにかを彼女の双眸(ひとみ)に見出だそうとしているようだった。  父と、あるいは自分と同じ色をもつものは、少なからずにいた。けれどは自分だけであった。母の眸も祖母の眸も、父やあるいは自分の色とは違っていた。 “夢幻(むげん)の花”と、彼らは呼んだ。いにしえの花の名を。うしなわれた、昔語りのなかだけの花の名を。  湖のほとりに咲く水色の夢幻。あまねく精霊に祝福をうけた神が、天と地の(ことわり)に背いても求めた水精の化身。他の神々の怒りにふれ、血の呪いを浴び、その身をオオカミとし地に墜とされた幽遠なる神。その怒りの炎に焼かれ、いちどは絶えた――――  そう、オオカミだ。オオカミが――――、    ……自分はそのオオカミと話したのではないか。赤い眸の獣と。  血の滴るような月の夜に邂逅(かいこう)した獣と。  どうっ、と風が唸り闇が襲う。なにかが割れる音、だれかの叫ぶ声。流れる油、血、色をなくした眸、這いのぼる冷たさ、硬い金属――――――  足をみた。 「……あのときの、わ、な……」  黒光りする金属に脚をとられた獣をたすけたのは、自分だ。  土が、荒らされたように跡があった。  手をみた。  爪に、びっしりと砂がつまっていた。 「……あ……、がぁっ……ぐぉっ」  少女は喉を掻きむしった。  血を吐くほど叫んだ。 *  なにかをさがしていた。たかい崖だったかもしれない。息をとめてくれる場所だったかもしれない。夜露にぬれた肌をかわかしてくれる陽の光でもよかった。しかしながら、たどり着いたのはあのオオカミがあらわれたとき、荒らされていた己の小屋であった。  暴掠(ぼうりゃく)の限りを尽くしたに比べれば、何ほどのことでもないような心地だった。  それにもう、あとのことなどどうでもよかった。魂が求める場所へいくことだけを描いていた。 “いとしいエンツィア”と微笑んでくれていたひとに逢いにいきたかった。  だからさがしていた。  すこしでも綺麗なものを着ていこう、そして水のある場所へいこう。    無残な有様の家のなかを、少女はふらふらと歩いた。散乱した薬草や、油がしみた床敷きにすべって頭を打った。のろのろと起きあがり、部屋をまたぎ、寝台下をのぞきこみ、目をさまよわせた。そこにあるはずの衣裳かごは、はたして寝台上に中身を空にして転がっていた。  少女は、しばらく空の籠をみていたが、ふと思い直したように寝台の敷布をめくった。上掛けはなくなっていたが、敷布の下に平らにしておいた貫頭衣(かんとうい)は無事であった。  片手でそれを無造作につかんで、台所のある部屋へ引き返した。  台所から直接外へ抜けられる扉は、蝶番がはずれギイギイと耳障りな音をたてていたが、少女は一顧(いっこ)だにせず、棚や抽斗(ひきだし)をあさった。  光に反射するものはおよそ消えていたが、刃がこぼれかけた小刀はかろうじて抽斗の奥に残っていた。  少女は小刀を目の高さでぼんやりと確かめた。  何とはなしに、小屋をぐるりと見回した。  家の扉から二段たかくなったところに置いてあった食卓机と、一脚しかない椅子にすわって食事をする己の姿を、少女の目は映した。  ふり返って、玄関の扉とほとんど平行にある台所の扉が開かれ、角灯をさげ胡桃をいれた籠をかかえた自分が入ってくるのさえも見た。建てつけた食器棚に、彼女はひとまず籠をしまっていた。  少女は踊るような軽い足どりで食卓の奥にある部屋へ向かい、寝台の壁にある窓をあけた。  窓の向かい側にずっとかけていたからか、その箇所の周辺が日にやけ、そこだけが他とくらべて色が明るい、いまは無いちいさい壁掛けを形ばかりととのえ、いま気づいたとばかり、ずっと手に提げていた角灯を置きに台所へもどり――――  在りし日の己とすれちがった刹那に、少女は我にかえった。  それでもどこか虚ろな目をしたまま、蝶番がはずれかかった扉から外へ出た。風が吹くたびに、扉はいつまでもギイギイと鳴った。 *  小屋から半刻ほど歩いたさきにある湖に、少女は来ていた。  鬱蒼とした道中とは打って変わって、眼前にひらけた景色はうつくしかった。日の出をむかえた湖は、生命のかがやきに満ちているようであった。  我しらず、その光景にみいっていた少女は、ゆっくりと湖面をのぞきこんだ。 “その尊き花は、湖のほとりに咲いていたのだよ”  なつかしい声に、少女の双眸がゆるんだ。 「おとう、さま」 “この世に稀なる色をもちたる民。わたしたちは、その末裔。血は薄れていったけれど、おまえの眸は、きっといにしえの花そのものだ。気の遠くなるとしつきの彼方にきえた尊き水と、その化身の花。その花ですら、とうに滅びた。だけどおまえは、だからこそおまえは、わたしたちの夢幻。神ですらつかめなかった()()  俗世のものになど、摘まれようはずがない。エンツィア、これを――――。わたしたちの……だよ――――” 「おとう、さま……」  少女は水面(みなも)にそっと手をのばした。 “湖のほとりに咲く花”と、自分の眸の色は形容されていたが、父の薄青の眸が少女は好きであった。ときに空のような。ときに湖のような。 「みつかってしまったの、おとうさま。からだもおかしいみたいなの。……だから、どうしたらいい?」  水面に、父の面影をさがすように少女は懸命に問いかけた。  木々の葉ずれの音が空しく響いた。 「そっちにいってもいいよね? わたし、綺麗にしていくのよ。そうしたら、おとうさまがすぐに、わたしをわかるのよ。水をよごしちゃうのは……ごめんなさい……。でも、羽がないからお空にはいけないの」  少女は傍らにおとしていた服をにぎりうつむいて、むずがるように首をふった。  やがて立ちあがり、服の体裁すらなしていない衣を脱いでやぶり、水に浸した。  水面で自分の姿を確認しながら、少女はからだの汚れをおとしていった。  腕や足のすり傷も痛んだが、喉のかき傷はなお惨いものであった。  …………なにかとてつもなくおぞましいことがあった気がする。  けれど、それがなんだというのだろう。もうすぐ、父に母に、いろいろと教えてくれた祖母に逢えるのだ。    髪をかんたんに洗い、もってきた貫頭衣に袖を通した。  祖母は、胡桃油の作りかたをおしえてくれた。母は、この服を縫ってくれた。そして父は―――― 「…………え……?」  少女は、とてつもなく大きな見落としをしているように思った。  父は、なんと言ってくれていただろう。 “いとしいエンツィア。これを――――。わたしたちの……だよ”  なにかを渡してくれた。どこにやったのだろう。わたしはいつも触れていたはずなのに…………。  衣裳かごは空だった。扉という扉は開けられ、食器類は割れて、油は床敷きにしみていた。料理用の刀やほかの小刀は消えていた。  それから、あのちいさな壁掛け。なくなっていて、周辺が日にやけていたから、壁掛けのかかっていたところは、まわりより色が明るかった。  わたしは、あの壁掛けに――――。  そう、壁掛けは、。  少女は色をうしなった。 「か、かえしてもらわなくちゃ……」  恐ろしさに膝がふるえた。 「お、おとうさまがくださった……おとうさまがかいてくれた……、あれがなくちゃ……」  少女は転びそうになりながら踵をかえした。  木々が、このさきの未来を暗示するかのように唸った。 “エンツィア、これはわたしたちの祝福だから――――”
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