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七
伝承とは、かくも定かならぬものよ
と、その獣はいった。
憐れんでいたのか、嗤っていたのか
いまとなっては、もうわからない。
いずれも夢の譚よと、嘆いていたのか、悼んでいたのか。
血に濡れたいまとなっては、もう。
わたしを、殺すの? 息だけがそれを問うた。
出来うるならば。
牙だけで獣は笑った。
餓狼となり果てた我を嗤うか。神の名を忘れてしまった憐れなるものを。
永久にも似た時のなかで、思いいずるものは、もう――――――――
*
「罠がない……」
三日間待った。湖から家に戻り、日が暮れてからも火を焚いて、いまだ罠の置かれた場所ちかくでしばらく時を過ごしたりなどもしたが、あの獣と遭遇することはなかった。
現と夢の境を意識がさまようなかで、なにを待っているのか、なにをしているのか、それすら少女にはどこか朧であった。
「返してもらわなきゃ……」
酸鼻をきわめた現場にあって、少女は茫洋とその痕跡を眺めた。少女と赤い双眸の獣との遭遇の端緒となった刺々しい鉄の刃――――残虐な行為のすべてを目にしていたその刃――――は、姿を消していた。だが、なにか明確な理解として少女がそれを受けとめることはなかった。ただ、過去の凄惨な出来事の一端を少女の意識にかすめていった。
「おもいだしたよ、おばあさま……」
祖母と呼んでいたひとは、痛ましいまでの顔をしていた。手をひかれながら走ったのは、暗澹たる道であった。
とおい昔語りを聴かせらるるに、くり返し語られた言葉。父も母も、病で死んだのではなかった。自分は村を引き払ったのでもなかった。
“忘れなさい”
“なにからも見つかってはいけない”
おとうさま。おかあさま。やさしいあのひとたちは、暴掠の限りが尽くされたあのとき、亡くなってしまったのだ。
ああ、こんなことが!
父の薄青の双眸が好きであった。母のやわらかなぬくもりに頬ずりした記憶は、なぜ褪せていたのか。少女は、薄青の空を仰いだ。
少女の父が愛した水色のひとみ。その夢幻の双眸から、透明な滴がこぼれて、落つ、その――――一拍。
涙が地へ砕けたのがさきか、その獣の足音がさきであったか。
血の滴る目をもつ狼は、牙を光らせていた。
*
森は、木々を重々しくそのうちに閉じ込めている。朝の澄んだ空は、その間からおそるおそる分け入っていた。
あの壁掛けを返してと、少女は総身をふるわせながら獣に相対した。獣は、少女を嘲弄する光をその赤い目に宿した。
「とうさまから貰ったの……大切な絵なの。おとうさまが描いてくださったエンツィアの絵なの」
「エンツィア?」
ゆらり、と鈍い色が赤い双眸に立ったようであった。
いまはなき、いにしえの花。その花の絵を、父は手ずから描いてくれた。これはわたしたちの祝福だからと言って。壁掛けの縫い目の隙間に忍ばせておいたものであった。忘れろという祖母の心痛を思うと同時に、かの一連の記憶をうしなってもなお、捨てられないものでもあった。
「……エンツィア、とな」
不気味なほどゆっくりと、獣は笑った。不穏な気配に瞬きすら忘れた少女は、胸のうえで冷たい両手を握りしめた。晩秋の寒風が、頭上で葉擦れを起こした。
「あなたでしょう? わたしのおうちを、あんなふうにしたのは……。なにを持って行ってもいいわ。でも、壁掛けだけは返して。わたしとおとうさまの大切なものなの」
「愚にもつかぬとは、このことよの。蒙昧な人間のすることなど、我の関知するところではない。我が、汝がごとき矮小な存在を目にかけると思うてか」
「あ、あなたがなにを言っているのかわからない……。返してほしいだけなの。それだけがあれば……」
「耄碌しておったわ。それなる色のあさましき民……清けき水の化身の恩恵をうける民の末裔……。その名がいまだ生きておったとはな。神々の能をもってすら、ついに予期できぬ人間どもの蛮行であったのにのう」
なんの因果であろうかと、腑の底からおかしいとばかり、獣は喉を鳴らした。少女の理解など待たぬ獣は、よくよく少女の双眸を見た。水の膜をはったようなひとみ。水を湛えるひとみ――――。
「まあよいわ……万事整うた。供物の民が花の名を騙るとはな。されど汝は贄にすぎぬ。あとは、月のめぐりを待つばかりよ」
禍々しいまでの血の色の目をした狼は、いっそやさしげに目を細めた。獣の生温かい息が、少女の肌を舐めるようであった。
悲愴な思いで少女は叫んだ。
「わたしは、贄になんかなりたくない! むかしのこと、ぜんぶ思い出したの。だから、おとうさまやおかあさまのところに往くの」
壁掛けが、いや、父が描いてくれたあの絵がなければ、自分は、父や母や祖母に逢いにゆくことなどできない。祝福されたものがなければ、すぐには自分をみつけてはもらえないかもしれない。はやく、はやく逢いたい。降りかかったおぞましい現実など、一瞬にして散ればよいのだ。
「みつければいいんだ……。かならず、わたしはおとうさまの絵をみつけるから……」
ひたと葉のざわめきがやんだ。
純真な光は獣をひたむきに捉えたが、生温かい呼気は少女を嘲笑った。
「どこへなりと逃げるがよい。汝の血の匂いを追うことなど、たやすい。月のめぐりは神であっても追い越せまい」
深閑な森は、いまこのときに世界はふたつの存在しかないとばかり、その身を微動だにさせなかった。
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