1.俺の地獄

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1.俺の地獄

「こんばんは、私のことを覚えていますか?」  遙か上方より糸を垂らして降りて来た蜘蛛は、俺にそう尋ねた。  だが生憎と俺は、この無間地獄に堕とされる以前のことを全く覚えていない。気がついたら目の前に閻魔を名乗る馬面の男がいて、罪状も明らかにされぬまま無間地獄行きを宣告され、そして獄卒どもに引っ立てられてここに連れてこられた。    以来俺は、獄卒どもの手によって文字通り地獄の責め苦を味わわされている。  くそっ、何故だ。俺はこんなゴミどもに、こんな目に遭わされて良い身分じゃないはずなのに!  記憶は無いが、そのことだけはハッキリと分かった。 「貴様ら、こんなことをしてただで済むと思うなよ! 俺が誰だか分かってんのか、ああ!?」  半ば脊髄反射でそう吠えた俺を獄卒どもは嘲笑い、更に痛めつけた。 「『俺が誰だか分かってるのか?』だってよ。ウケる」 「そっちこそ、自分が誰だか分かってんの?」  はらわたが煮えくり返ったが、ぐうの音も出なかった。確かに今の俺は、自分が誰なのか分かっていない。  だが俺は、偉いのだ。偉いはずなのだ。それだけは分かる。ゴミクズ同然の他の亡者どもと俺では、格が違うのだ。  しかし獄卒どもはそんな偉い俺を、他の亡者どもといっしょくたにしていたぶった。いや、むしろ他の亡者よりも念入りに俺をいたぶったと言って良いだろう。  救いは、獄卒どもの勤務時間が九時から十七時までの間だけだということだった。俺が奴らの上司ならそんな怠惰は許さず、仕事を舐めているのかと一喝して昼も夜も働かせるところだが、どうやらあの馬面の男はずいぶんと部下に甘いらしい。そんなことでよく閻魔が務まるものだと思うが、責め苦を受ける側としては獄卒どもには早く帰ってもらった方が都合が良いのも確かだった。  獄卒どもが引き上げると、責め苦を受けていた亡者どもも豚小屋のような寝床へと戻るのが常だったが、俺はその中には混ざらなかった。  臭くて汚い粗末な寝床だが、ここと比べれば居心地がまだマシなのは確かだ。しかしそれでも、あんなゴミクズみたいな亡者どもと俺は違うのだというプライドが、俺をここに留まらせた。だから俺は、夜の間はいつも一人だった。  蜘蛛が目の前に降りてきて自分のことを覚えているかと尋ねたのも、そんな一人きりの夜のことだった。 「覚えているかと聞かれても、生憎と俺はここに来る前の記憶が無いんだ」  俺は正直にそう答えた。  もっとも、例え記憶を失っていなかったとしても、こんな虫ケラのことなど俺が覚えているとも思えないが。 「おお、そうでした。あなたは罰の一環として、閻魔によって記憶を奪われてしまっていたのでしたね。それでは私の方から説明いたしますが、あなたは以前にそれはもう色々と酷いことを沢山してきたのですが、一つだけ良い行いをしたこともあったのですよ。それは、一匹の蜘蛛を助けたことです。私は、その時に助けていただいた蜘蛛なのです」  この俺が、こんな何の価値も無さそうな虫ケラ一匹を助けた?  にわかには信じられなかったが、記憶が無い以上、否定することも難しい。 「そして、あなたにも良き行いをした過去があったことを思い出されたお釈迦様が、救いの手ならぬ救いの糸として、私をここに遣わせてくださったというわけです。さあ、この糸をお登りください。これを最後まで登りきれば、あなたはこの地獄から脱け出し極楽浄土へとたどり着くことができます!」  おシャカ様だと?  その名前を聞くだけで、反吐が出そうだった。俺の嫌いな偽善者の臭いが、ぷんぷんする。  極楽浄土とやらにも魅力は感じなかった。平和で皆が幸福に過ごせる場所……そんなところにいて、何が愉しい?  だが、俺がここからの脱出に成功すれば、少なくともあの馬面に吠え面をかかせてやることはできる。  俺は、にやりと笑った。 「そうか。善行は積んでおくものだな。それじゃあ、ありがたく極楽浄土ってところに行かせてもらうこととしよう」  俺は心にもない言葉を口にすると、蜘蛛の糸を登り始めた。夜が明ける前に、登りきってしまわなければいけないと思った。夜が明ければ、他の亡者どもが起きてくる。そしてこの糸を見つけ、自らもこの地獄から逃れようと登り始めるだろう。そうして最終的に、糸は切れてしまうに違いない。昔も、そんなことがあったような気がするのだ。  そう、あの時も愚かな亡者の一人を、シャカの奴が勝手に救おうと……くそっ、頭がぼんやりしてよく思い出せない。ともかく、俺はあの時の亡者の二の舞はごめんだ。  俺はか細い糸を必死で登った。糸はどこまでも続くかと思われたが、やがて上方に天井と、そこに開いた穴が見えてきた。糸は、その穴から垂れ下がっている。ということは、あれが極楽浄土とかいうところへの入り口か。  その入り口まではまだまだ距離があったが、少なくとも目に見える目標が出来たことが俺を勇気づけた。この分なら、急げばぎりぎり明け方までにはたどり着ける。  見てろよ、あの馬面め!  口元を歪めて登る速度を上げようとしたその時、耳元でプーンと耳障りな羽音が響いた。俺は思わず、上方へと伸ばしかけていた手を止めてしまった。 「こんばんは、私のことを覚えていますか?」  それは、一匹の蚊だった。 「あ? 覚えてねーよ。なんだ、お前も俺に助けられたってのか?」  気勢を殺がれたことに苛つきながら俺が答えると、蚊は激高して叫んだ。 「助けた? いいえ! 私はあの時あなたの血を吸おうとして叩き潰された蚊です!」 「あの時ってどの時だよ? いや、どの時でもいい。覚えてねえが、この俺の血を吸おうとするような身の程知らずの蚊なんて、いくらでも潰しただろうしな。もう一度叩き潰されたくなかったらさっさと消えろ、虫ケラ。その羽音が耳障りだ」  俺はそう言い捨てて再び糸を登り始めたが、蚊は俺の命令に従うことなく耳障りな羽音を立てながらついてきた。 「知っていますか? 血を吸う蚊は、これから産む卵のための栄養を必要としている母親なんですよ。つまりあなたがやったことは妊婦殺しも同然! ああ、可哀想な私の赤ちゃん! あなたの方は、私に血を吸われたくらいで出血多量で死ぬわけでもないのに、どうしてそんな酷いことができるんですか!? この人でなし!」  そう叫ぶと蚊は、俺の手の甲にとまって口吻を突き刺した。 「てめえ、何しやがる!」  俺は反対側の手を振り上げて蚊を叩き潰そうとしたが、蚊は素早く飛び立ってそれを避けた。どこに行ったのかと探すと、今度はいつの間にか剥き出しの腕にとまっている。 「この虫ケラが、いい加減にしやがれ!」  俺はわめきながら腕を振り回し、なんとか蚊を叩き潰そうとしたが、そうこうしているうちに手が滑り、ずるずるっ、と五メートルほど糸をずり落ちてしまった。 「くそっ、もういい! 虫ケラごときに構ってる暇は、今の俺にはねえんだよ!」  俺はそう毒づくと、ずり落ちてしまった分を取り戻そうと必死でまた登り始めたが、その間も蚊は無防備になった肌を次々と刺してくる。  やがて手の甲が、腕が、首筋が、そして顔までもが、痒くて堪らなくなってきた。  掻きむしりたい。だが、掻いている間は登る手を止めなくてはならなくなる。ただでさえ夜明けまでに極楽浄土へたどり着けるかぎりぎりだったのに、先ほどずり落ちてしまっている。ここで頻繁に手を止めて体を掻いたりしていたら、もう絶対に間に合わない。我慢するしかなかった。  ああ、それにしても痒い。全身が痒い。褌の中まで痒い。くそっ、なんかおかしくないか? たかが蚊一匹でここまで全身をくまなく刺せるものなのか? 「ふふふ、そろそろお気づきのようですね」  俺の疑問に答えるかのように、衣服の中から声が聞こえてきた。 「どうもこんばんは、あの時あなたの番犬の血を吸っていて、蚤取りシャンプーで駆除されてしまった蚤のピコです」 「同じく、あの時駆除されてしまったダニのダニエルです」 「ちなみに、そちらの蚊の方ですが、御名前は『希臘美麗女神』と書いて『ヴィーナス』と読みます。妙ですね、立派な名前をお持ちなのに、いったいどうして名乗らなかったんでしょう? ねえねえ、希臘美麗女神(ヴィーナス)さん、なんでちゃんと自分の名前を言わなかったんですか? ちょっとー聞いてます? 希臘美麗女神(ヴィーナス)さーん?」 「五月蝿いですよ! 子供には花子とか太郎とか、キラキラじゃない普通の名前をつけるつもりだったんです! ああ、それなのに、私の赤ちゃんは……。可哀想な私の赤ちゃん!」  蚊は蚤に煽られた苛立ちをぶつけるように更に俺を刺しまくり、蚤とダニもそれに続いた。  痒い。痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い!  だが、掻いている余裕は無い。  こうなったらもう、極楽浄土とやらに痒み止めがあることを期待して、一刻も早くたどり着くべく登るしかなかった。  だが、そう決意を固めた俺の耳元に、蚊の立てるものよりも低いブーンという羽音が響いた。 「こんばんは、あの時あなたに大切な巣を撤去されたアシナガバチです」 「同じくキイロスズメバチです」  言うが早いか、蜂達は蚊とともに俺を刺しまくった。さしもの俺も悲鳴をあげる。  更に、俺が登っている糸をつたって上から何かがやって来た。 「こんばんは、あの時あなたに……いや、べつにあなたと会ったことは無いんですけど、とりあえず来てみたヒアリです」 「同じくトビズムカデです」 「同じくサウスアフリカンジャイアントファットテールスコーピオンです」  糸から俺の体や顔へと這い上がってきた毒虫達もまた、俺の体を刺し、咬んだ。  痛い! 痒い! 痛い痒い痛い痒い痛い痒いいたいかゆいいたいかゆいいたいかゆいいた……。  痛みと痒みで、頭がどうにかなりそうだった。  俺の理性が半ば限界に達したその時、糸をつたって上からまた何かやってきた。 「こんばんは、チャバネゴキブリです」 「クロゴキブリです」 「ワモンゴキブリです」 「ヤマトゴキブリです」 「ヨロイモグラゴキブリです」 「マダガスカルオオゴキブリです」 「やって来てみたはいいものの、これはもう我々の出番は無いのではないでしょうか、チャバネ君?」 「とりあえずこの大きい鼻の穴に入ってみて、そこから口の中にこんにちはとかしてみますか、ワモンさん?」 「うわああああああああああああああああ、やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」  俺は思わず、片腕を振り回してゴキブリ達を払い落とそうとした。だがその途端、もう片方の手が汗で滑り、掴んでいた糸から離れた。  そして俺の体は、地獄の底めがけて真っ逆さまに落ちていった……。    気がつくと、今まさに朝日が昇らんとしているところだった。 「もうすぐ、獄卒達や他の亡者達が来てしまいますね……。あなたをここから逃がそうとしていることが彼らにバレるとまずいので、私はいったん引き上げることにします。しかし私は、けっしてあなたを見捨てたりはしません。夜になったら、必ずまたあなたを助けに来ます」  蜘蛛はそれだけ言い残すと、するすると上へ上がっていった。 「くそっ!」  俺は地面を殴りつけた。  どうやら俺は、失敗したようだった。だが俺は、絶対にこのまま諦めたりはしない。蜘蛛もまた来ると言っていたし、次こそはここを脱出してみせる。  俺はここの亡者どもとは違うのだ。地獄の獄卒ごときにいたぶられて良いような身分ではないのだ。  そのことを、必ずやあの閻魔を名乗る馬面野郎に思い知らせてやるのだ!  俺は虫刺されで腫れあがった全身を掻きむしりながら、次の夜に向けて決意を新たにした。
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