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ロンドンから列車に揺られること数時間。そこから船に乗って海を渡ること丸一日。そして、そこからさらに列車に半日揺られて、そこからは馬車を借りて……
そんな辺鄙な田舎に、ベルベットの故郷はある。
「ここがあなたの故郷なのね」
馬車を止めている間、わたしは座りっぱなしで痛くなったお尻と、ガタガタ揺れるせいでおかしくなった耳を休ませるために、その風景に身を任せた。
とても静かだ。
だけど無音っていうわけじゃなく、自然の音がそこにあった。山は緑色に輝いていて、空は青い。鳥の鳴く声と、小川のせせらぎ。あとは吹き抜けていく風の音と、草原の揺れるさざなみ。
起伏のある地形を歩き慣れた馬はとても健康的に育っていて、それでいて人懐っこく、おとなしい。この地で育った馬って感じがする。
ベルベットの顔を見ていると、なるほど、あなたの育った場所なんだと納得した。穏やかで、優しくて、静かで……でも力強い場所。
「さあ、もうちょっと」
馬は小川の水を飲んで元気いっぱいだ。わたしは馭者台に乗り込んで、ゆっくり馬車を走らせた。
「いつか、一緒に来ようって約束してたもんね」
後ろの馬車に乗っているベルベットに届くように、わたしは声を張り上げた。すると、周りの山々に声が反響して、しみこんでいく。とても恥ずかしい気分になった。
「いいところじゃない。どうしてロンドンなんかに? ここでずっと暮らしていればいいのに」
質問したけど、答えは分かっていた。ベルベットにはきょうだいがたくさんいて、彼らを養うために工場で働かなくてはならなかったのだ。田舎には仕事がなくて、給料もとても安い。
「お金ができたら、いっしょに暮らそうっていう話だったのにね」
途中、それほど広いとは言えない道で、反対側からやってくる商人の幌馬車を見た。わたしがなんとか道を譲ってあげようとすると、相手は慣れた感じで先に馬車を道の端に寄せ、早く通りなよ、と手でサインした。
「ありがとう」
向こうの馭者は、わたしを見ると、すこし遠慮がちに頭を下げた。初めて走らせる馬だけど、こいつは利口で、器用にそばを通り抜けてくれた。
目的の村までは、もうすぐだ。
ずっと草原を進んでいくと、やがて石造の門が見えてきた。
「あそこ? あそこね」
返事を聞くまでもなく、村の名前が見えてきた。ベルベットの故郷、その村の名前だった。
「はぁ、ようやく着いた。大変だったなあ」
検問らしいものも特にない。何事もなく、石の門をくぐり抜ける。村人はまばらに道を歩いていて、穏やかな活気に包まれている。のんびりとしていて、わたしも気分が緩んでくる。……いけない、いけない。気を引き締めないと。
村の中心にある、円錐形の石の屋根、そこがわたしの目的地だ。
そこには、すでにベルベットの両親と思しき夫婦と、それから小さなきょうだいたちが揃っていた。
みんな、黒い服を着て、女性はベールを下げている。
「あなたが……」
「こんにちは。はじめまして」
馭者台から降りたわたしに、家族の方々は深々と頭を下げた。年長の人から順に涙を流して、小さい子はぽかんとしていた。
わたしは馬車から、ベルベットを降ろした。
正確には、彼女が入っている黒い棺を。
「おお、ベルベット……! どうして、どうしてこんなことに……!」
棺に縋り付いて泣いているのは、たぶん母親だ。わたしは何も言うことが出来ずに、ただ黙ってそれを見ていた。
父親と思しき男性が、わたしに深々と頭を下げた。
「この度は、娘を送ってくださって、どうも……なんとお礼を言ったらいいか」
「いい村ですね」
「え……?」
「静かで、穏やかで。ベルベットも、こんな村みたいな、優しい子でした。いつか、わたしもこの村で暮らせばいいって、そう言ってくれたんです。お金が貯まったら、ベルベットのきょうだいたちがみんなひとり立ちしたら、ここで暮らそうって……」
その矢先の事故だった。
突然、ブレーキの故障した蒸気機関車が暴走して、踏切を渡っていたベルベットを撥ねた。両脚を潰されたベルベットは、そのまま血を流しすぎて失血死してしまった。
わたしは、それをたまたま目の前で見ていた。あまりに突然のことで、助ける暇もなかった。
「ほんとうに、ありがとう。あなたのことは忘れない」
「忘れてください。わたしのことなんか」
「でも、あなたは恩人です」
「わたし、ベルベットとキスをしました。あなたの娘と、いっしょのベッドで寝ました。愛し合ってたんです。そんなこと、知らない方がいいでしょう」
という、最後の言葉は、口に出しては言えなかった。ベルベットの静かな死を、邪魔するようなことになる。
「さようなら」
わたしはそそくさと、その村を後にした。
また、来たときと同じだけ時間をかけて、ロンドンに戻る旅が始まる。来る時と、帰る時とでは、見える景色はずいぶん雰囲気が違っていた。
暖かくて静かに見えた風景は、追い風のように、だんだん道を広くしていく。早く行け、早く行け、と、言うかのように。
「……あれ」
もう散々泣いたはずなのに、まだ涙が出てくる。ベルベット、あなたもロンドンへ出てくるときは、こんな気持ちだったのだろうか。
「さようなら。ベルベット」
わたし、もう二度とこの村には来ない。
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