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妻帯者、山本
「あっ、良恵! 俺だ、帰って来たぞ!」
声の主に導かれて長いトンネルを抜けると、明るくなった視界の中に、色褪せたソファーとテレビが飛び込んできた。見慣れた居間だが、3つの黒い墓石みたいなものに遮られて、そこから先に進めない。しばらく覗いていると、長年連れ添ってきた妻の姿が現れて、こちらに近付いてくる。
チーン
線香とお鈴の音。良恵は神妙な面持ちで、山本に向かって手を合わせる。
ああ、そうか。これは、仏壇の中から見える景色なのだ。墓石のようなものは、両親と、自分の真新しい位牌。
「あなた。これから、第二の人生を楽しもうねって話してましたのに」
「良恵……すまんなぁ」
「ねぇ、これ、覚えてますか?」
彼女は、ガサリと音を立てて、下からなにか取り上げた。それを位牌の高さまで持ち上げる。
「お通夜の前の慌ただしい中……お坊さんが枕経を上げていた時に」
『すみませーん。山本良恵様宛に、お花が届いてまーす!』
真っ赤な薔薇が30本入った花かご。結婚30年目を祝う「真珠婚式記念」のリボンが付いている。
ずっと余裕のない生活で、記念日を祝うことなんて出来なかった。だから、今回こそはとサプライズで予約していたのだ。
「不幸の最中に赤い薔薇なんて、もう――」
苦笑いした目尻のシワが深くなり。
「でも……覚えていてくれて、嬉しかった。ありがとうございました、あなた」
彼女の瞳から、真珠に似た丸い粒がホロリと溢れた。額を軽く叩くと、山本は旅立った。
【了】
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