11.猫の山下さん

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11.猫の山下さん

「つまりね、貴女。私はどえらいことをしてしまったわけですよ。わかります?」 公園のベンチでその人間が話しかけてきた時、猫の山下さんは日向ぼっこの最中だった。長い冬を越え、漸く降り注ぐ暖かな陽光の中で、彼女は耳をぱたぱたと畳んだり立てたりしながら満喫していた。この辺りの野良猫の中で、とりわけ小柄で弱い彼女が、心地よいこの場所を独り占めできたのはまさしく僥倖だった。 そんな至福の時間を邪魔するのだから、隣の人間は彼女にとって、鬱陶しい存在でしかなかった。だが、このうららかな日向をむざむざ手放すのも惜しい。少し考え、彼女は男の言葉を聞き流すことにした。煩わしいが、危害を加えてくる様子はないことを見て取った後、元のようにぐでんと四肢を伸ばし、弛緩した。 「何せ、他人様の人生をぐるりと変えてしまったわけですから。それも、立て続けに何人も。ほんのちょっとしたことでね。私がそういうことをしてしまったのは、そうだな、思えば子供の時の出来事がきっかけだったと思うんですよ」 彼女の心の裡も知らぬ様子で、その男は滔々と語り続けている。歳で言えばそこそこの歳なのだろう。長く話すと段々と痰が絡み、話しづらそうにしている。だが、止まることなく、彼は次のように言葉を続けたーー ーー私の父は所謂、転勤族というもので、私ら家族は数年毎に住居を移していました。学校なども転々としたものだから、友人付き合いはいずれも長続きしませんでした。 そんな生活だったからでしょうか。子供の頃の記憶といえば、思い出すのは友達の顔というより、もっぱら風景ばかりでした。夕方に煙をなびかせる工場の煙突、似たような形の戸建て住宅が並ぶニュータウン、急勾配の道路と飛び出し坊や、ガードレールの下に落ちていたラベルのないVHSテープ、町にぐるりと包囲された肩身の狭い雑木林。 名前も忘れた町々の片隅で顔を覗かせたそれら景色の断片は、人間よりも表情豊かで、個性的で。むろん、それらを見ている私の横には友達なり家族なりもいたはずなのですが、彼らはまるで影のように忘却の向こうで漂っているのです。あるいは幼少時、影の住人だけが暮らす世界に自分は住んでいたのではないかと、時折半ば本気で思うこともあります。 実は、その当時の両親の顔形もよく覚えていないんですよ。今の老いた二人の姿しか印象がなくて。昔は毎日顔を付き合わせていたし、話すことはたくさんあったので、決して不仲なわけでもないのですが。かつての二人はどうにも現実感がなかったというか。 ーーそう考えると私は元々、転勤云々に関係なく、人との繋がりへの意識、興味が希薄だったのかもしれませんね。 ですが、そんな幼い私が唯一、はっきりと存在を認識した人間がいました。その人との出会いが、全てを変えたのだと思います。 それは何度目かの引っ越しの時でした。西の方の、とある地方都市に移った時の住まいが、そのマンションでした。時期は確か、小学校三年、四年生くらいになった頃でしょうか。 そのマンションの高さは十階程度で、見た目は昏い水色を基調としていました。周囲の建物との位置関係のせいか日中でも仄暗く、ひんやりとしていました。夏場の引っ越しだったので、母などは暑くなくて過ごしよさそう、と上機嫌に言っていたのを覚えています。 その人をマンションで見かけたのは、引っ越した翌日の朝のことでした。引っ越しで出た段ボールを畳んで束にして、父と一緒に運んだ時のことです。 マンションの共同ゴミ捨て場は一階の外、カラスよけのネットに覆われてありました。コンクリートの仕切りで燃えるゴミ、不燃、ビン・カンと区切られており、その中の燃えるゴミの一角に彼がいました。 彼はゴミ袋の中におりました。膝を抱えて座ったまま、どんな感情も宿さない瞳で、半透明の世界を眺めていたのです。 彼が死んでいるわけでないことは、まばたきをしていることや、呼吸のリズムに合わせてビニルがかさかさと音を立てることでわかりました。 私はその姿を見て、しばらく動けませんでした。子供の私は今まで、彼のようにゴミ捨て場にいた人間なんて見たことがありませんでした。ですがそんな風に驚く私を横目に、マンションの住人達は特に気にした様子もなく、その横にぽいとゴミを捨てていきました。 「こんなに大きなゴミが出せるのか、結構大らかだなぁ」 男を見て父はそう言いながら、手にかかげた段ボールをばさりと指定の場所に下ろしました。男の存在に、さして疑問を持っていないような口振りでした。 「その山下さん、ずっとここにあるんですよ」 近くを通りかかった他の住人が、父にそう答えました。 「なんでも指定外のゴミだから回収しないって業者の方も突っぱねていましてね。もう何ヶ月もこうやって放置されたままです」 「山下さんと彼は言うのですね。いやはや、まだ使えそうなのに、勿体ないことだ」 「ええ、まったく」 それから二人が他愛もない世間話などを始めたものですから、その間に私はゴミ袋の彼をまじまじと観察していました。半透明の袋の向こうの髪の毛の縮れ具合や無精髭の生え方。男性にしては細い腕、そして何よりその無機質な目。 そして、しばらくして、私はある発見をしたのです。そのことを伝えたくて、父の手を引っ張って、私はこう伝えたのでした。 「この袋なんだけど、裏表が逆なんだ。だから、山下さんに捨てられているのは多分こっち側、袋の外側なんだよ」 その時の父親の表情といったら。先ほどお伝えしたように、当時の彼の顔かたちは殆ど覚えていないのですが、何を伝えている表情かははっきりと覚えています。子供の無邪気さに痛いところを突かれて、でもどうしようもないことだからと諦めているような。戸惑いと、微かな恐れをトッピングした、情けない表情。 それを見て、私は親というものが、ただの矮小な人間だと悟りました。 それから、そのマンションに住んでいる間、通学時に山下さんを見るのが密かな楽しみでした。毎日観察していると腕の位置とか、口の開き具合とかに、微かな違いなどが見つかりました。実際に動かしている瞬間こそ見ることは叶いませんでしたが、それは彼と私との間だけの秘密のようで、子供心にどきどきしたものでした。 私は次第に、彼に話しかけるようになりました。話す内容は、その日あった他愛のない出来事や、自分の好きなもの、昨日見たテレビの内容など。他の住人のいないタイミングに、こそこそと囁いて伝えました。もうその頃の私にとっては父も母も揺らぐ影でしかなく、本当の家族は彼だけと思っていました。だからたくさんのことを、彼にだけ話したかったのです。 どんな話にも彼は反応を返すことがありませんでしたが、確かに彼は聞いていると感じました。だって彼は壁や岩や、影などではなく、耳のついた人間なのでしたから。 同時に、段々と学校や、家で交わす内容がどんどん空虚になっていきました。本当の対話とは、マンションのゴミ捨て場でしかなかったのです。 私はそうした思いも、山下さんに話していました。この世界の虚偽、薄弱さ、曖昧さ、不愉快さ、寄る辺なさ、情けなさ。 「山下さんが捨てたこの世界って、本当はどうしたら良いのかな」 ある日の朝、確か冬に入りかけた頃でしょうか。段々と日の出が遅く、低くなり、物悲しくなってくる朝。そんな中で私は、ふとそんなことを山下さんに漏らしました。 「このまま燃やしてしまうのがきっと、良いのかもしれないけれど。でも、こんなに大きな世界を燃やす方法なんてないよね。それに、こんな世界は湿気た木の枝のようにくすぶりばかりな気もするんだ。ねえ、山下さんは方法を知っているかな」 そう問いかけた瞬間に起きたことを、今もありありと思い出します。空気が薄くなったというか、音が遠く霞んだような。いえ、まさしくあの時に世界は変容せしめたのです。欺瞞という薄いヴェールに覆われていた向こう側、その存在に薄々気づいてはいたのですが、それが克明となったのはその時でした。 相変わらず山下さんはその唇を動かさず、喉を震わせることもありませんでした。しかし、明確に一つの事実を彼は語りかけたのでした。 その灰色の瞳から与えられた啓示こそが、私を私にしたのでした。痺れるような感覚が足元から駆けあがっていって、私を裏返しにしていきました。 そして、預言者として、この世界を廃棄する為に生きることを決めたのですーー 「ーー実はその日の後、しばらくの間の記憶がないんです、私。次に覚えているのはいつの間にやら冬が終わっていて、私ら家族はそのマンションとは全然違う場所で暮らしていたことでした。奇妙なことに、マンションのことや、何より山下さんのことを親に話しても、そんなことは知らない、何か夢でも見たのではないかと言われたものでした。一年前から同じ場所に住んでいたと」 そこで男はひきつるように笑った。 「私には彼らの主張を否定する手段がありませんでした。何せ、私が住んでいたと信じていた場所での出来事、家族との共通の思い出は何一つなかったのですから。ですが、私はそれが夢でないと確信していました。まとわりつく希薄な現実と比べ、記憶の中の彼はあまりに鮮明でした」 その言葉を最後に、彼は黙りこむ。猫の山下さんはもちろん、彼が何を言っていたか少しもわからなかった。ただ、人間が声を発するのを止めたことで、ようやく心からゆっくりと休めると思っただけだった。 数分程経って、男は立ち上がった。 「随分と長く話をしてしまいました。私が何をしでかしたか、ということについてはまた、日を改めて話すことにしましょうか」 脚を引きずるようにして歩いて、彼は公園の出口へと歩いて行った。彼の前にちょうど、子供を抱えた夫婦が入ってくるところだった。男はじっとりとねめつけるような視線を送ったが、その二人は気にした様子がない。まるで、男の姿が見えていないようだった。 ただ、手に抱えた幼子だけがじっと男を見つめ返していた。その瞳が僅かに広がり、黒さが増したように見えたのは、光の加減だろうか。 すれ違う際に男は口元に指をあてて、子供に対してしーっと静かにするようジェスチャーをした。それに応えたのか、子供は何ら声を発しないままだった。 その後、何もなく彼らはすれ違った。それだけだった。 ――暖かな日差しの中で。ただ、今は。
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