2.赤色の山下さん

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2.赤色の山下さん

明滅する光が何度も瞼の上を往復して、眠っている山下さんを起こそうとしていました。彼は身をよじって暫く抵抗していたのですが、顔を手で覆っても、今度は頭の中を揺らすような音がきぃん、と鳴り続けてその耳を苛みました。 いよいよ二度寝することを諦めて、唸りながら彼が目を覚ますと、あれほど鬱陶しかった音がぴたりと止まりました。光も動きを止め、明度を落として四角い部屋を照らしています。ちょうど彼の頭上に一つある、照明がもたらす赤い光。その中で上体を起こした山下さんは身体を少しねじってみます。硬い床で寝ていたから、身体中がばきばきと音を立てました。 何だか随分と寂しい夢を見ていたような気がします。もっとずっと、夢の中にいたいと彼は思いましたが、それは許されないことでした。立ち上がった彼は役目を果たすために、いつものように壁の一つの前に立ちました。指を一本立てて、壁に触れる。金属のひんやりとした感覚と硬さが指先に伝わりました。そのまま指を左に滑らせる。指がなぞった後は、黒くくっきりとした軌跡が残りました。指を離して、また壁の別の場所に置く。それを何度も繰り返す。 散らかった線が何本も増えていく。それがある時点から次第に何らかの意味を持ち始めて、形を成していきました。何十回、何百回と指を走らせた後、彼は最後の一本の線を足しました。 彼の前には大きな一輪の薔薇の絵が浮かび上がっていました。完成を確認した彼は、再び部屋の真ん中に戻り、膝を抱えて座りました。そのまま、ずっと絵を眺めていました。 どれほど時間が経ったのか、暫くすると、描かれた壁に変化が起きました。まず、天井の照明がその壁に向けて光を傾けました。光が絞られ、壁の部分だけ眩しいほどに光っていました。その光の中で、一つの影が動きました。 それは少女の姿でした。子供特有のふっくらとした頬や、小さな手指、そして可愛らしいスカートをなびかせて歩いているのが、影絵でもよくわかりました。少女は最初は手のひら程度の大きさだったのですが、山下さんの方に向かって歩くにつれてどんどん大きくなり、遂には人一人分の大きさになりました。まるで、本当に部屋に少女がいるようでした。壁に映った影の少女は、自分の背丈より大きな薔薇の絵を見上げていました。彼女はあどけなく手を伸ばして、その花弁に触れました。薔薇はふわりとなびいて、彼女の触れた花弁がはらりと落ちました。それを拾い上げて、少女はまるで帽子のように、それを自らの頭に被せました。影絵の少女はそのまま背を向けて歩き始めました。現れた時と逆に、歩くたび彼女はどんどん小さくなっていきました。一度振り返って、山下さんの方を見たような気がしましたが、その表情はわかりませんでした。 最後に小さな点となって、彼女が消えてしまった後、再び照明が元の位置に戻りました。薄暗くなった壁には、一枚花弁が少なくなった絵だけが残っていました。その絵も次第に薄らいでいき、そして最後には何も残りませんでした。 山下さんは腰を上げて、今度は別の壁に絵を描き始めました。描きながら、彼はふと今朝見た夢が何かを少し思い出した気がしました。 それはおそらく、この部屋に入る前のことだったのでしょう。もう彼自身が覚えていない、世界での出来事。彼が犯した罪に対する罰として奪われた記憶と人格。その罰が何かも当然、覚えていないのですが。 与えられた役割は、この赤い部屋でただ絵を描き続けることでした。すぐに消えてしまう絵を描くことにどんな意味があるかとか、考える力も今の彼にはありませんでした。影絵の少女が時折、その絵から何かを取っていくことだけで彼は満足していました。だから、これからもずっと、ずっと、ずっと絵を描き続けるのでしょう。見る夢がなくなっても、この赤い部屋にいるのでしょう。
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