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5.風に舞う山下さん
長年共に暮らしていた山下さんが、急に家を出て行ってしまった。僕の軽率さが原因だった。
今日はずいぶんと風が強い日だったのに、日差しが良いからと不用心に彼女を外に干してしまったのだ。シーツにプリントされている山下さんは一際強い春の風に誘われ、洗濯バサミの拘束から逃れ、ベランダを翻って飛んでいってしまった。しどけない寝巻き姿のまま、危険な外の世界へと旅立った彼女。
去る者に追い縋るのは格好悪いことかもしれないが、彼女を取り戻す以外の選択肢はなかった。服を何重にも着込む、帽子やマフラー、マスクをするといった最低限の準備だけをして、急いで外に出る。一人の女性に身も心も捧げるというのも中々にデカダンで耽美ではなかろうか、と鍵を閉めながら少し思う……なんてことはない。今の自分が、恥も外聞もなく痛シーツカバーを追いかける変人ということは自覚している。自覚しつつも行動を止められないのが、人の悲しい性なのだ。
なるべく音を立てないようにしてアパートの階段を降りる。経験上、この時間帯に遭遇する可能性は低いのだが、警戒するに越したことはない。びょうびょうと叫ぶ風は、周囲のあらゆる音をかき消してしまっている。こんな日は決して外に出るべきではないのだが、事情が事情だ。変人なりに譲れないものが僕にはある。
音が頼りにならない中、視界情報にはいつも以上に注意を払う。敷居を出た先には無造作に伸び散らかした生垣、路肩に乗り上げている廃車、散乱する鞄やぼろぼろになった衣服、ガラス片、血痕。風に吹き飛ばされているゴミ以外で動くものがないかを何度も確認してから、慎重に足を踏み出した。着込みすぎているせいか、それとも緊張している為か、首の後ろをじっとりと汗が伝うのを感じる。
風の勢いはこれまでに経験したことがないほどに強く、油断すると身体を持ってかれそうになるくらいだ。もしかしたら台風が来ているのかもしれない。その中で何とか踏ん張りながら、山下さんの飛んでいった方角に三十分ほど探し歩いた頃だろうか。想定していたよりかなり早くに彼女を見つけることができた。
十メートルほど先の、電柱の根元に引っかかり、ばたばたと風を受けて暴れている。危うい均衡の中で辛うじて止まっている彼女を捕まえようと、自然足取りが早まった。
あと数歩というところで風が少し和らいだ。そして、弱まった風の音の中、それの呻き声が確かに聞こえた。それもごく近くで。
身を硬らせて警戒をする。電柱の向こう、曲がり角の向こうから近づいてくる、引きずるような足音、熟し過ぎた果実を床に叩きつけるような水音。そして音の発生源が塀の物陰から姿を見せた。目に刺さるような異臭を放ち、骨の覗く腕を前方に伸ばして進む。歩き続ける死体、有り体に言えばゾンビだ。
突然の遭遇で真っ白になっていた頭はすぐに思考を再開し、生き残る為にどうすべきかを必死に考え出そうとする。彼我の距離はおよそ数メートル、ゾンビは歩みが遅いものの確実にこっちに向かってきており、このまま立っていると数秒後にはあの腐敗した腕に絡め取られてしまう。衣服の部分なら大丈夫だが、肌が出ている部分に僅かでも傷をつけられると、ゾンビウィルスが身体を巡り、数刻もしないうちに彼らの仲間入りだ。
むろん、走って逃げればすぐに振り切れるはずだが、困ったことに彼と僕の間には探し求めていた山下さんがいる。ここで捕まえなければ、再び強い風が吹いた時に、今度こそ彼女を見失ってしまうだろう。といって、電柱まで無策に走っていき、拾おうと身をかがめれば、彼の前に頭部を晒す姿勢になる。防御の薄いその部位を爪の届く範囲に差し出すことは、つまり餌食になる危険性がぐっと増すことを意味していた。
次の行動を早く決めなければ、状況はますます不味くなる。何かないかと考えていると、火事場の馬鹿力というものか、解決案を一つ思いついた。羽織っていたコートを脱いで手に持ち、それから勢いづけて電柱に向かって走り出す。
電柱にたどり着いた僕は、片手で山下さんを拾い上げながら、もう一方の手で目と鼻の先のゾンビにコートを投げつける。獲物に振り下ろそうとした腕と頭に、上手くコートが覆い被さった。狩るべき対象を見失い、その鋭利な爪は厚手の革生地に阻まれている。振り下ろされた腕は僕の両肩を強く叩いたが、傷を負わせることはなかった。彼が脅威でなくなったこの隙に、僕は距離を取ろうと身を翻す。このまま逃げ切れば計画通りだ。
しかし、その時再び強い風が吹き始めた。突然の横殴りの風に煽られて、ターンの途中だって僕はバランスを崩して片手を地面についた。同時に、ゾンビの頭を覆っていたコートが風に飛ばされ、その虚ろな目が下にいる僕を捉えた。確実に僕を狙って再び振り下ろされた腕に対し、体勢を崩したままでかわすことは不可能だった。その汚染した爪が顔面に振り下ろされようとするのをただ見ることしかできなかった。運命の悲劇的な喜劇さを笑う余裕もない。
しかしその刹那、視界が突然の白い何かに覆われた。それが何かを理解する前に頬に衝撃を受ける。しかし、想定していたような切り裂かれる痛みはない。ほんの少し何かがぶつかったというだけだ。慌てて頬に触れるが傷がついていない。
脚をもつれさせながらも後ずさり、何が起きているかを確認した。いつの間にか手から離れていた山下さんが、ゾンビをすっぽりと包んでいたのだ。先ほどと同様、牙も爪も隠されてまごついている怪物。僕は昂った感情のまま、山下さん越しに腹部に強く蹴りを入れると、骨が折れる嫌な音とともに彼は倒れた。再び起きあがろうとする前に山下さんを引っ張り回収し、脇目も振らず来た道を走って戻る。ゾンビが一体だけで行動していることは少なく、近くに何体かいるはずだ。一対一だから奇跡的に何とかなったものの、複数に囲まれたりしたらどうしようもない。だから、ただ走る。山下さんを離さないよう力強く握り締めながら。
緊張と疲労でぼんやりしてきた頭でふと、この世界で生き残っている人間がどこかにいるか、また今度探しに行こうと思った。そして、いつか誰かに会うことがあれば、その時は今日の話をしよう。人間らしく愚かな生き様のことを、そして僕の恋人、厚さ数ミリの山下さんのことを。
それはともかく、と手に握ったシーツを見下ろす。ゾンビの返り血と、靴跡とが残った彼女を、帰ったらまた洗濯しなければならないな。息を切らしながらそんなことをぼんやり考えて、少し笑った。
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