6.重めの山下さん

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6.重めの山下さん

山下さんを中心として、半径およそ五キロメートルの地盤が沈下したのは三日前のことだ。山間に突然できたすり鉢状の巨大な穴。その中はなぜか光をほとんど取り込まず、黒い闇に覆われている。昼に覗き込んでも中がどうなっているかわからないのに、それでも役人やら警察やらが一通りその検分を終えて、何らかの結論を出していた。その後、周囲に転落防止の柵を立て終えた彼らは昨夜、雑談を交えながらさっさと引き上げていった。 近くに住む人々も、初めは物珍しく穴を覗き込んだりしたものだが、いかんせん暗いばかりで何も見えないからと、数時間もしないうちに飽きて帰ってしまった。田舎ではこれくらいのことはよく起こるから、たかが穴ぼこひとつにあれこれ騒ぐほどではないのだ。 村人の中にはドローンを持っている数寄者がいおり、彼はそれを飛ばして穴の中を調べようとした。しかし、降下している最中に突然モーターとカメラが故障し、そのまま墜落していったので結果はわからずじまい。その失敗動画はネットにアップされ、そこそこの再生数を稼いだものの、他に同じことを試みる者はいなかった。撮影したところで所詮は二番煎じだし、先人と同様ドローンを失うのは嫌だと思ったのだろう。 それに、穴の中には何があるかはニュースでの情報で皆わかっていた。それは山下さんという一人の少女だ。近くの村に住む中学生。 暇人達は彼女のSNSを調べ、ネットの掲示板で遊ぼうとしたが、大したものは出てこなくて炎上などは起きなかった。彼女は一度メディアに露出したことがあったが、それは地方新聞の、それもほんの小さな一コマだけ。『田舎の衰退する図書館、復興に向けた図書ボランティアの活躍』というコラムと、その中に粗い粒子で描き出される彼女の容姿。田舎の子らしい日焼けした肌、骨張った小柄な身体つき、体躯に似合わない大きめの丸眼鏡。どこをどう見てもただの垢抜けない女学生。ネットの匿名者達にとって、そんな可もなく不可もない評価は弄りがいがなかったのだろう。 警察が去り、見物客が去り、そしてネットの注目も薄らいできた四日目。そんな日の早朝に、私は穴の縁に一人訪れる。秋の終わりの朝は冷えた空気を纏い、歩く度に枯葉の折れる音がその中に響く。背負ってきたリュックの中に準備したのは一通りの登山用具とサバイバルセット、ヘッドライト。むろん、これらは今から穴を降りる為のものだ。 自己紹介が遅れたが、私は山下さんと知り合いだった。彼女と同じ図書ボランティアをしており、新聞の写真でも実は並んで写っている。彼女の横、頭ひとつ分身長が高くて、仏頂面で写っているのが私。もしここに他の誰かがいれば、今の私が写真と同じような表情をしているのがわかるだろう。可愛げがなく、何に怒っているわけでもないのに不機嫌そうな面持ち。 リュックサックから一抱えもある長いロープを取り出し、一番丈夫そうな木の幹にくくりつけた。もう一方の先端を穴の中に落とすと、何重にもとぐろを巻いたそれが跳ねるような音を立てて小さくなっていき、そしてピンと張って垂直に下りる一本の線になった。ネットで見たように、そこに特殊な結び方でハーネスに括り付け、それからゆっくりと縁に足をかけた。見様見真似のそれっぽい姿勢で穴を降りていく。穴の周りの傾斜は急ではあるが、垂直に切り立っているわけではないし、大きめで安定していそうな石が所々に頭を覗かせている。そこに足をかけながら、じりじりと奥深く降りていく。 「ノッポちゃんは、どんな本を読むの」 その日は図書ボランティアの第一回目の活動だった。老若男女のボランティア達はそこで初めてお互いに顔を合わせ、自己紹介を行った。その後、簡単な今後の活動方針の共有が行われる前の隙間時間、山下さんは私にそう話しかけた。彼女の住む村がどこかを自己紹介で話していたから、学区が違うことを知っていた。だから、あだ名で呼び合うような間柄ではないし、そもそも会ったことすらないはずだ。 「えっと、ノッポさんって?」 「ほら、身長高いから。だからノッポさん」 そう言って彼女はきししと笑った。歯の隙間から矯正具が光る。 「同い年の女の子がいて安心したの。こんなボランティア、おじいちゃんおばあちゃんしかいないかなって思ってたから」 確かに、学生は彼女と私だけだった。私は同年代の子がいなければいいと思っていたので、彼女がいることに内心面倒だと思っていたものだ。 「それで本、どんなの読むの?」 「ごめん。あんまり読まない」 視線を合わせずに、私は素っ気なく答える。彼女の興味がさっさと私から無くなればいいと思う。 「私、親に言われてここに来たの。だから、図書館が好きだから来たわけじゃない。今まで、本とかにあんまり興味持ったことないんだ」 「そっか。いいなあ」 予想外の返事に思わず、彼女の方を振り向く。 「いいなって、なんで」 「だって、今から好きになれるってことでしょ。感動したり、どきどきしたり。腹を抱えて笑ったり。そんな経験がまっさらな状態で、今からできるんだもの」 すっかり面食らった私はどう返事していいかわからなかったが、そんなことをお構いなしに、彼女はどんどん一人で話を始める。眼鏡の奥の瞳がらんらんと輝く。 「私ね、運動苦手なの。小学校の頃から一輪車も、鉄棒もできなくて。でも勉強もできなかったから。漫画ばっかり読むのはやめなさいってお母さんに止められて、本を読み始めたの。最初はいやいやだったんだけど、私も」 でもね、と彼女は一拍おく。 「慣れてくると、とても面白くなったの。漫画と同じくらい、ううん、漫画よりも面白いことだってある。だって自分で場面を想像することができるもの。自分が一番素敵だと思うキャラクターの見た目で、素敵な構図で物語を描けるの、頭の中で。それってとても素敵なことだと思わない?」 「……わからない」 彼女に気圧されながら返事をする。幸いにもその時、休憩時間を終える旨を司書さんがアナウンスして、彼女と離れることができた。彼女と離れることができて、安堵している自分に気づいた。 私はその時、彼女を少し怖がっていたのだと思う、自分より頭一つ分小さい彼女のことを。 穴の傾斜は常に一定でなく、勾配が緩やかな区間もあれば急な区間がずっと続く部分もある。周囲は霧がかっており、ヘッドライトを灯してみても、穴の底はおろか、上を見ても、白い靄に覆われ、夜明け前の空はよく見えない。風景が変わり映えしない中、私はかつての出来事を思い出しながら歩みを進める。 少しなだらかな部分があり、腰を下ろして少し休憩することにする。ずっと強く紐を握っていた手はじんじんと熱を持っている。それを何度も握ったり開いたりをしてほぐす。冷えた空気が火照った私の中に染み込むのを感じる。 ふと何かが聞こえたような気がして顔を上げる。耳を澄ませると、誰かの話声のようなものが穴の奥側から聞こえる。私は立ち上がり、改めて声のする方に足を進める。何歩か歩いた時、足の裏で何かを踏み潰した感覚があった。 確認してみるとそこには、個包装された米菓が落ちていた。袋の中、私の体重を受け止めて、パキパキに割れている。 それをポケットに入れて、ふたたび移動を始める。私は確信を持つ。この穴の中で彼女が呼んでいるのだ、きっといつものように。 ボランティア活動は、メンバーの全員が集まったのは最初の一回のみで、その後は活動リーダーが差配したシフトに沿ってばらばらにボランティア活動を行なった。活動内容は様々で、本の宣伝や、利用者アンケートの集計、返却された本を棚に戻すことなど様々だった。司書さんは元々二人いたのだが、旦那さんの転勤で一人が辞めてしまってから、中々回し切れていないことがあったらしい。残された方の司書さんは、ボランティアの活動に毎回お礼を言いながら、メンバーにお菓子をくれるのが常だった。 私のシフトはだいたい週一回、平日のどこかに入っていた。本当はもっと頻度を下げたかったが、これ以上下げると親が良い顔をしないことが簡単に想像できたので、仕方のない落とし所と思った。シフトのある日は学校終わりに、車で母が迎えに来て、そのまま図書館のある町まで私を運んで行くのが常だった。車中での会話は私にとって、常に緊張を孕んだものだった。少しでも言葉を滑らせて、批判と非難をされることがあれば、狭い空間で逃げられないから。 山下さんとは時々、シフトが被ることもあった。そんな時に彼女は積極的に話しかけてきたし、私はひたすらに彼女の言葉を流していた。話題は彼女の好きな本についてがほとんどで、何度も色々聞かされたせいで、読んでもいないのにかなりの数の本の粗筋を知るようになった。そして、勧められた本のどれも、私は読むことがなかった。 最初、彼女は私の両親と同じようなものだと思っていた。さも私のためという風に話しかけて、読書量の差で優越感を持ちたいのだと。 しかし、何度も話を聞いているうちに、彼女の欲望はもっと単純なものだと感じるようになった。山下さんは私の為なんて建前を用意できるほど賢しくもなかった。読んだ本について、ただ誰かと話したい。その感情だけで、悪びれもせずに私に思いをぶつけてくる。明らかに彼女は愚かで、それゆえに私にとっては怖かった。 そんな私の心裡を知らないだろう彼女は、調子外れた声色で本の話をして、時折司書さんからもらった米菓を口に運んでいた。 「そしてダンテはね、案内人に連れられて、地獄に下っていくの。それぞれの階層では異なる責苦があって、実在の人物が苦しんでいる描写が描かれている。責苦の内容はいろいろあって、想像するだけで痛くて、私震えちゃった」 話を聞き流しながら、私はお菓子に手をつけないままでいた。お菓子を食べたせいで夕食を残して、そのことを両親からひどく非難されるのが嫌だった。だから貰ったお菓子はいつも、ひっそりとごみ箱に捨てていた。 山下さんは既に亡くなっているらしい。 警察や救助隊が明確にそう見解を出したわけではない。ないが、穴の底の探索への興味のなさ、検分の打ち切りの早さから、そう判断している可能性が極めて高いというのが、ネットのいわゆる有識者達の意見だった。その信憑性はどこまであるか疑わしいのはもちろんそうだが、一方で私はその考えに納得していた。 黙々と穴を下っているが、終わりは見えそうにない。用意したロープは相当の長さのものにしたが、あるいは底に届くまでに終わってしまうのではないかと心配になる程だ。もし穴が突然できたとしたら、その上にいた山下さんは真っ逆さまに落ちたはずだ。同年代の少女より貧弱な体つきの彼女が、その場合生きているはずはなかった。 彼女は死んでいると考えているのに、こうして私は穴を降りていっている。このことを知れば親は、これまでになく激しく糾弾するだろうが、やめるという考えはなかった。その理由は何か、上手く言語化はできない。もし彼女の言う通りに色々な本を読んでいれば、あるいはこうした私の感情を整理して、理解できたのだろうか。そんな愚にもつかないことばかり考える。 下に行けば行くほど、彼女が呼んでいる感覚が強まる。それに同調するように霧が下に向かって流れる中を私は、名前のない感情に突き動かされ進んでいく。 ーーこの穴の発生で、山下さん以外に亡くなった人物はいないというのもネットの見解だった。そのことに私は少し安心していたが、その感情は道徳的な何かではなく、もっと汚濁のような何かから生まれたものと自覚していた。 「ノッポちゃんって、学校に友達いる?」 1ヶ月前のこと。図書館の書庫で古い本の修繕作業をしている時のことだ。カビ臭く、薄暗い空間の中で彼女は、何度やっても上手くいかないテープの貼り付けに四苦八苦しながら話しかけてきた。最初の会話以降、本の話以外の話題は一度もされたことがなかったので、私は彼女の質問の意図を測りかね、当たり障りなく答える。 「そこそこはいるよ。一緒にご飯食べたり」 「そうなんだ。ノッポちゃん運動できるものね。動ける人って友達できるもんね」 山下さんには運動神経の有無を過剰に評価する癖があるが、特に訂正する気もなく私は黙っていた。彼女は少し気落ちした声で呟く。 「私は運動できないから、やっぱ友達いないのかな」 その発言に対してさしたる驚きはなかった。距離感を誤りがちな彼女の言動を見れば、親しい間柄の人間はほぼ皆無であることは容易に想像できた。 「運動が苦手でも、友達ってできるのかな」 そう言って彼女は自嘲ぎみに笑った。相変わらず、気味の悪い、不器用な笑顔だった。 私は彼女が嫌だった。彼女の在り方は私の中の何かを否定していた。自分の価値に自信がなくて、人の顔色を伺って。私より馬鹿なはずの彼女に、もっと馬鹿だと言われているような気がして。 だから、私はその時に少し、意地悪をしたのだと思う。 「じゃあ、何か派手で人目を引くようなことをすれば、友達でもできるんじゃないの。有名になれば、人気者になればさ」 「そっか。じゃあ今日この後ある地方新聞の撮影で、私友達できるかもしれないんだね」 「ううん、それじゃ足りないよ」 「足りない?」 「うん、もっともっと人目につくようなこと。皆が驚くようなことをしないと。そうしないと山下さんのこと、名前ですら誰も覚えてくれないよ」 「そっか。ねえ、どんなことをすればいいかな」 「それはわからないよ。私でも考え付いてしまうようなことじゃなくて、たくさん本を読んだ山下さんにしか思い付かないようなこと。私楽しみにしているから」 それだけ言い放って私は自分の作業に集中した。彼女は何やら考えこんで、かつてないほど静かになった。 その後、地方新聞の写真撮影があった。その時には答えが出ていたのだろうか、彼女は満足げに微笑んで、そしてその瞬間は紙面に保存された。 穴の底に着いた。ちょうど紐が降り切った場所から、平坦な地面が広がっていた。ごつごつとした岩の広がりに、確かめるように足を踏みしめる。 下に行くに連れて狭まる穴ではあったが、終点もそこそこの広さがあるようだった。ライトで照らしてもよく見えないが、学校のグラウンドより少し広いくらいだろうか。太陽の熱が届かない底面はとりわけ冷えた空気が満ちており、その中で霧が不可思議な文様や図象を描いては崩している。上を見上げても今がどれくらいの時間かもわからず、完全に隔絶された世界だった。 私はその中心の辺りに歩みを進める。知らず息が浅くなり、緊張しているのを自覚する。だが、それは不快な感覚ではなかった。 山下さんがこんなに大きな穴を開けた理由はわからないし、方法は更にわからない。誰もきっと。興味も持っていない。 だから私は私の解釈で勝手に、この穴に意味をつける。彼女に与えたささやかで意地の悪い言葉が、これを作り出すきっかけになったのだと自惚れる。そして、このままだと、彼女の試みは失敗で終わってしまうと。 いよいよ中心に近づいていると感じる。そこにあるのは潰れた彼女の死体なのか、あるいはもっと恐ろしい何かかもしれない。それでも私は呼びかけに応えるように足を早める。コキュートスの彼女に。 ほら、友達になりにきてやったぞ、馬鹿。
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