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7.文明の山下さん
ヤマシタ文明の勃興と衰退は、記録されている限り八百回以上起きており、その影響範囲は七大陸・各島嶼に渡る。同文明群の存続期間は最長で百五十年、最短で七十五日であり、平均は二十年程度である。
ヤマシタ文明は最初の誕生以降、連綿と続いているわけではない。歴史上、その痕跡が百年近くない空白期間もあれば、同時期に三つの地域で一度に誕生したこともあった。各文明の地理的、言語学的連続性はないが、後述するとある共通点から、各文明は同一系列と判断されている。
ヤマシタ文明の萌芽は二万年前、ヴュルム氷期の後期とされている。現在のアフリカ北部、アトラス山脈の山岳氷河の中でそれは興った。氷に閉ざされた奥深く、山間の洞穴で生まれた最初のものを第一ヤマシタ文明と呼ぶ。
第一ヤマシタ文明は百五十年近く続いたとされ、これは後の同文明群の存続期間と比べ最長とされている。その後の第二〜第二百八十五文明が数年から十数年程度で終わったことを考えると、第一ヤマシタ文明はヤマシタ文明群に似ているが別文明ではないかという学説を掲げる派閥もいるが、彼らは異端児扱いされている。
第一ヤマシタ文明の担い手は人間、いわゆるホモ=サピエンスではなかったという説が有力視されている。ホモ=サピエンスの農耕文明の誕生が約一万年前と言われる中、それより更に六千年前にヤマシタ文明が存在したという事実が、その主な論拠とされている。また、例えば同時代での洞窟壁画がいくつか発見されているが、その文字の大きさはナノメートルサイズ、かつ肉眼では見えない塗料で記述されており、これは当時のホモ=サピエンスの技術では不可能とされている。また壁画には当時の住人の姿を描いていたが、そこには四つ足のものや、海棲生物の顔を持つ人型の生物、数十メートルはある虫の姿が入り乱れていた。創造の産物とも思われたが、周囲にはこれまでのいかなる生物と異なる骨格の一部が残っており、先述の仮説を補強する材料としてよく取り上げられている。
ホモ=サピエンスでないならその担い手は誰だったのかという問題が残る。ミュータントだのディノサウロイド(恐竜人間)だの、いやエイリアンだのと口角泡飛ばす議論がされる中、ヤマシタ文明学の権威とされる老教授が、天啓を受けたとして提言したのは羽の生えたスポンジ状の生物だった。こちらについて、当時の学者達は一様に真剣な表情と検証を行い、『その可能性が高いとは言えないまでも、決してナンセンスとして切り捨てるほどの論理的誤謬を抱えてはいない』という結論が出された。
その後、当の権威が学会から消えた後、スポンジ理論もひっそりと議論の俎上から退かされることになった。その後、本議論は白けてしまった空気が漂っており、現在も積極的な解明がなされていない。便宜上、姿形のわからない彼らのことをホモ=ヤマシトゥスと呼ばれているが、そうしたややこしい摩擦に巻き込まれてしまったばかりに、この単語が試験問題で問われることは滅多にない。
以降のヤマシタ文明も、先述の継続期間や、地理的な違いはあれど、習俗や活動に大きな違いはなかった。彼らの文明は自己完結しており、閉ざされた世界で只管に洞窟内での記述作業に勤しんでいた。一万年前頃までは。
一万年前、最後の氷河期が終わり、ホモ=サピエンスは生存の為により集まった村落を起点に、文明を生み出したとされている。この頃はヤマシタ文明の第二百八十六〜第三百十九文明の発生期と重なるが、それらは草創期の同文明群と比べて影響力を持つ範囲が地理的には明らかに縮小している。それ以前がおよそ大陸の過半を占めるようなものだったのに対し、この時期のそれは町一つ分、あるいは大きめの公園程度の大きさに止まっていた。ヤマシタ文明が存在しない空白期間も多くなっており、この要因を新たに誕生したホモ=サピエンス文明との衝突と衰退と見る論説もあったが、戦闘の記録が見つからないことから、その可能性は低いと見られる。最近の研究ではホモ=ヤマシトゥス側がただ様子を伺っていたのではないかと推測されている。
この頃にヤマシタ文明側で生じた大きな変化として、文明の担い手が変わったというものがある。それまでホモ=ヤマシトゥス向けとなっていた各風習が、いずれもホモ=サピエンスが行えるように調整されていった。第二百文明の頃には完全に担い手がホモ=サピエンスに変わったことが確認されている。
元々いたホモ=ヤマシトゥスがどうなったかについては、その後の痕跡が見つかっていないことから不明である。
さて、紀元前三千年頃はチグリス川、ユーフラテス川の流域にて広がっていたメソポタミア文明と、ヤマシタ文明の交流の記録が残っている。とはいえ、メソポタミア文明側にはあらゆる書物にその記述はない。ヤマシタ文明との接触は禁忌とされており、神官などの限られた人種のみが、秘密裏に交流していたものとされる。
以降、紀元後においても同様に、ヨーロッパ、アジア、アメリカ大陸さまざまな地域にヤマシタ文明は生まれ、消えていったが、そのいずれについても交流した他文明側で記録が残っていることはない。その為、歴史上の大きな出来事の裏には必ずヤマシタ文明の影があったという意見も散見されるが、陰謀論がスパイスされた些か奇抜な夢想に過ぎないだろう。メソポタミア文明では神官がその交流者であったもの、以降は農奴や町の処刑人、皮革職人といった、当時の身分制度では低い立場の人間も多かった。そうした市井の人が何かを起こしたと言う記録は表立った歴史文献にはない。
ヤマシタ文明は特定の地域、言語、政治体制を持たない。特に言語についてはだいぶいい加減で、例えばマヤ文明の片隅、南アメリカ大陸の第三百三十一文明は現代日本のネットスラングに近い言葉を用いていたし、産業革命期の英国、サセックス州にあった第七百三文明ではメキシコのサポテク語に近しい系統の言葉を用いていたと言う記録がある。だが、同文明の最も特徴的な文化は深く言語機能と関わる部分であるというのは考えさせられるものがある。
ヤマシタ文明は、過去の出来事を記録することに最も重きを置く。だが、その内容は常に誤っており、そこには突飛もない事情が記載されている。文明ごとに記述内容は全て異なっており、そもそも自文明の歴史すら支離滅裂であり、それはあるいはラブロマンスだったり、SFだったり、冒険譚、または実在しない他文明との交流記だったりするのだが、共通して『ヤマシタ』と名乗る人物、あるいは物体が主題となっている。ヤマシタが同文明の神格的な存在なのか、何かの隠語なのかもわからない。その記述は祭事に執り行わられるというものでもなく、文明ごとに記述量、更新する頻度、文章の巧拙も異なっている。だが、これらを総称してヤマシタ文学と呼ぶ。
ヤマシタ文明が衰退する原因はいずれも不明である。外敵からの強襲、政治腐敗による内部からの崩壊、いずれの可能性も考えられるが、決定的な証拠はない。同様に誕生する背景も不明であり、ヤマシタ文明はある種の現象なものとして、気象学の見地からアプローチを試みる場合もある。
上述の通り、ヤマシタ文明に関する情報は多くが謎に包まれている。確認の為には、最新の第八百某ヤマシタ文明へフィールドワークを行うことが一番効果的な方法だが、それがどの地域に存在するのかはわからないし、そもそも、今は文明の存在しない空白期間である可能性もある。その不確定さを利用して、研究者の中には、ここに文明がある可能性が高いと称し、適当に海外旅行を満喫する不逞の輩も多いと聞く。
ヤマシタ文明が本格的に研究され始めてから数十年経つも、学者達は現存する文明を一度として見つけられていない。その理由として、近年では一つの仮説が流行している。それは、ヤマシタ文学とはいずれもフィクションではなく、ある種の"事実"を記しているのではないかということだ。正確に言えば、記述されるとその内容が事実になると考えられている、というべきか。
それが事実であるならば、世界を書き換えることで現ヤマシタ文明は、その場所や、関与した人物を常に更新していると考えられる。そうして彼らは、文明の存在が公表されることを隠匿しているというわけだ。
また、過去の内容が支離滅裂になっている理由についてもこの仮説で説明がつく。世界の様相は最新の記述内容に上書きされる為、結果、過去のものは支離滅裂なフィクションになる。
むろんこれはスポンジの怪物と同様、突拍子もない仮説であり、本来なら一顧だにされない暴論である。だが実際は、説得力のある仮説として学会に迎えられつつある。
興味深いのは、その認容を持って当仮説が立証されているという考えがある点だ。曰く、この様な奇怪な仮説が受け入れられつつあるのは、現存するヤマシタ文明がそのように記述し、世界が変容している証拠なのだと。
だが、同時にこの考えはある種の学会への懈怠と諦念を生み出しているという側面もある。つまり、こうして研究をいくら重ねた所で、次のヤマシタ文明の記述によって、事実は容易に変わってしまうのであり、であればあらゆる調査はナンセンスであるという考えが学会を支配しつつある。調べれば調べる程、その意味が失われるというのは何かの寓話的であり、まさしくヤマシタ文学的といえよう。
だが、私はもう一つの可能性を考えている。ヤマシタ文学が行うのは現在ではなく、未来の書き換えではないかと。つまり、この世界の有り様を確定しているのは、現存するヤマシタ文明の記述によってではなく、あるいは遥か過去のある記述によって既定されるのではないか。例えば第一文明に存在した、一人の寂しいホモ=ヤマシトゥスが束の間に描いた夢なのかもしれない。その記述は大陸変動に呑み込まれ、今は海溝深くで時折泡を吐きながら、読み解かれる日を待っているのかもしれない。
それが過去の文明のものか、現在の文明か、あるいは未来の何者かの手によるものか。その作者はスポンジ状の何かか、エイリアンか。いずれにせよ、それであるならばそもそも我々を取り巻いている諦念すらフィクションかもしれない。だがこの物語は果たして、いかなるジャンルになるのか。
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