9.代理の山下さん

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9.代理の山下さん

指定された時刻に男が行くと、一人の女がいた。 深夜の廃墟には肌寒い静寂が満ちていた。かつては何かの組立工場だったのだろう、何本もの大きな柱に支えられた空洞。そこにはビニールに覆われ廃棄された製造ラインが立ち並び、破れたトタン屋根からは月明かりが落ちてきている。 月光の差し込むちょうど真下で、若い女は紫煙を燻らせながら立っていた。茶色のチュニックに細めのデニムと平凡な服装ではあるが、漂わせている雰囲気は針のように鋭く、普通ではない。 「貴方が今宵のお客さんね」 尋ねながら、女はその切れ長の目で男を値踏みするように見つめ、それから鼻先をふんと鳴らす。紙煙草が細い指先から足元の水溜りに落ちて、微かに音を立てた。 「秘密の逢瀬に来るのなら、もう少し魅力的な方がお望みなのだけれど」 「お前が『山下さん』か?」 女の軽口を無視して男は言い捨てる。その声は低く、陰気な印象だ。表情ものっぺりとして、感情のない瞳は魚を思わせる。 「そうだけれど、何か気になることでも?」 「あの作品を書いたのは男だと思っていた。お前が本物だという証拠は」 問いかけに対し、女はショルダーバッグの蓋を開ける。そこから一冊のクリアファイルを取り出し、相手に見せつけるように掲げる。すると、それまで焦点の定まっていなかった男の両目が、一気にそのファイルに引きつけられた。 「そう、これが件の八〇四文書、その写し。これを持っているということが、何よりの証拠になるのじゃなくて?」 話しかけても、男はファイルに釘付けのまま返事をしない。その反応に満足したのか、女は薄く微笑みながらそれを手元に引き寄せ、少し芝居がかった動作でそのページを捲る。 「約半世紀に渡り学会が探し求めた、現在進行形で『記述』されている唯一のヤマシタ文学。いいえ、学会の関係者以外でも、この存在を知る者はすべからく、手にしたいと望む作品」 「なぜなら、そこに『記述』された内容は、やがて書かれた通りにこの世界を変容させるからだ。逆に言えば、その内容を読めば、これから起きる変化を事前に知り、備えることができる」 男の繋いだ言葉に女は首肯する。 「そう、その通り。だからこそ、人は知的好奇心を満たす為だけでなく、もっと浅ましい欲望や、あるいはお門違いの大義を立てて、この内容を求める。そして、貴方もその一人というわけ」 彼女は、ぱたん、とファイルを閉じた。 「さて、これに貴方が支払う対価は何か、わかっているかしら」 「事前に連絡した通りだ。我々はそれに記載された内容を読み解き、『山下さん』に伝える。代わりに我々は『山下さん』から、その書物のコピーを受け取る」 彼女は無造作に男に近づいていく。その背丈は平均よりも高めで、目線の高さは男と同じくらいだ。お互いに手が届く距離まで来て、向かい合う形で立ち止まる。 「そう、何故ならここに書かれている内容は、貴方達にしか読めない文字で記されているから。但しここにあるのは一部分だけ。残りを渡すのは貴方がこの分を翻訳して、私に伝えてから。事前に連絡した通り、それでいいわね?」 男は頷き、女は言葉を続ける。 「あと、これも予め伝えていることだけど。いかなる方法であれ私に危害を加えないこと。そして、私が読めないからと言って、偽りの訳文を渡さないこと。それらのことをした時点で、残りは貴方達の手に渡らず、永遠に闇の中よ」 突然、男は喉の奥からごぽごぽと泥の泡立つような音を立てた。あまりに耳障りな音で、女はそれが笑い声だとすぐにわからなかった。 「後者の取り決めについては随分と滑稽なことだと思うがな。仮にここで正しい訳文を渡す、と私が誓ったところでそれがどうなる。約束したから安心、とお前は思うのか」 「あら、貴方にも笑うという概念があったのね。知らなかったわ」 彼女は内心の不快感を覆い隠しながら微笑む。 「ご心配ありがとう、でも大丈夫よ。既に訳し終わっているパートがいくつか、この中には混じっているわ。貴方が後日訳文を渡した時、その部分がどう訳されているかを私は確認する」 女はそれから、戯けたように肩をすくめる 「あるいは嘘をつかないということを、貴方達の神様に対して誓ってもらうかしら。まあ、偉大な神様はそんなこと言われても、鬱陶しいだけかもしれないわね。いつも寝惚けていて、ゆっくりしたいでしょうし」 「あの方を冒涜するな、小娘」 男は低く唸り声をあげて威嚇する。 「あら、怒らせてしまったかしら。ごめんなさいね、そんなつもりはなかったのよ」 女の飄々とした態度に腸が煮え繰り返り、その肢体を神への供物とする考えが男の頭をよぎったが、理性でそれを押し留めた。彼女の言う通り、ここにある文学はほんの一部だけだ。全てを手に入れてから改めて、どうするかを考えれば良い。 「わかった、我らが神にも誓ってやろう。そのファイルを受け取った際、内容を一字一句とて過たず、日本語に訳してお前に渡すことを」 男の宣誓をしっかりと聞いた彼女は、ファイルを確かにその手に渡した。その場でさっと内容を確認した男は、一度頷いたのち、工場から去っていった。 男が去って数分待って、辺りを伺いながら女は同じように立ち去る。周囲を警戒しながら足早に歩き、少し離れた場所に隠していた自らの車に乗り込んだ。 それから高速に上り、夜通し走り抜けた。尾行されていないかを何度もバックミラーで確認しながら、追跡されないよう時折下道に降りたりもした。 そうして、夜明け前になる頃に彼女は村に着いた。普段暮らしている、山間の小ぢんまりとした村落。括っていた髪を解いて、眠気と懈怠を引き連れながら、倒れ込むように家に戻った。 仰向けになり、天井を見上げたまま女は深く息を吐く。毎回のことながら、得体の知れない相手とやり取りをするのは緊張した。 ゆるゆると上体を起こし、灰皿を脇に引き寄せる。それから煙草に火をつけて、煙で脳を麻痺させた。交渉の際、相手に下に見られないようにと吸い始めた煙草も、今はすっかり手放せないものになってしまった。 喫煙以外にも、話し方や、服装も普段からなるべく遠ざけて、彼女はなるべく交渉の時の自分と、日常を過ごす自分との距離を取ろうとした。物理的にも、精神的にも。こうしたことをもう随分と続けて、時折どちらが本当の自分か、今は彼女自身にもわからなくなりつつある。 煙の向こうで、彼女はもう遠い昔、あの日のことを思い出す。 あの奈落のような大穴の底で見つけた一冊のノート。『彼女』の代わりに、中央にあったそれ。 中身は何とも知れない、楔と花弁を織り交ぜたような奇怪な文字で記されており、理解できるところは少しもない。ただわかるのは、『ヤマシタ文明』と書かれた表紙と、裏に記された『八〇四』という数字。 彼女の些か子供じみた空想の産物と思って、しばらくは放置していたのだが。しかし、二年前、ふとした折にその文字を打ってネットで調べてみたことがあった。南アジア文明だかの研究者、あるいは山下という名字の平凡な大学教員などの検索結果の間に、それはあった。 『文明の山下さん』 小説投稿サイトの、何でもない短編の一つだった。 内容は、この世界にはヤマシタ文明という、正体不明の文明が存在しているというものだ。その文明は人類の正史の裏側で特有の歴史を紡いでいる、と言う荒唐無稽な話だが、彼女はその内容でいくつか気になる所があった。 それは例えば、その文明が八百回近く生まれてきたこと。あるいはその時代や場所ではない言語で書かれているという記述だった。あの日に手に入れ、何年もの間捨てられないままでいるノートに自然と視線が行った。八〇四という数字が、八〇四回目の文明のことを指しているとしたら。あるいはこれが作中で述べられている、『ヤマシタ文学』なのではないかと。馬鹿げているが、抗い難い確信が自らの中で育つのを彼女は感じた。 『文明の山下さん』を、『彼女』が書いた作品なのかと思って調べたが、作品の更新は『彼女』がいなくなった後だった。投稿者が上げている作品は、その一編のみだった。 『彼女』が実は生きており、何かのメッセージを伝えようとしているのではないか。女は作者にダイレクトメッセージで連絡を取った。しかし、それに対する返信はないまま時間が過ぎた。 次第に彼女が諦めかけていたある夜、非通知で電話がかかってきた。普段であればそのような不審な着信は無視するのだが、何らかの予感のものを覚えたのだろう、気づけば取ってスマートホンを耳に当てていた。 「文明について知りたいのであれば、彼らと接触せよ」 その中性的な声は男性とも女性ともつかず、言葉の抑揚もどこか不安にさせるものだった。ただ、少なくとも『彼女』ではない、という感覚はあった。 「彼らとは南緯47度9分、西経126度43分にて眠れる神を奉るもの。一つ前の彼の文明を担っていた、と信じている者たちだ。今は虚構となり、列強により蹂躙された栄光を求めた哀れな奴隷」 その声の裏側では低い反響が繰り返し、繰り返しうねりを上げていた。それはまるで悪夢の中で聞くような音だ、と彼女は思った。 そのままかかってきたのと同様に、電話は突然に切れた。そして暫くして、文字化けしたメールアドレスからメッセージが届いた。そこには一つのアカウント名とパスワードが記されていた。『文明の山下さん』の作者のアカウントだった。 そして彼女は――私は、作品を更新することにした。一つ残された『文明の山下さん』に続く形で、私自身の物語を書いた。ひどく拙い文章で。 すると、様々なメッセージが私の元に来るようになった。学会の関係者と名乗る人物、聞いたこともないカルト集団の幹部、自称ホモ=ヤマシトゥス。 彼らは冗談でもなく、一つの大きなうねりの中で存在していた。表には浮かばない深海を渦巻く大きな潮流。知らないうちにそれに足を取られ、引き摺り込まれていく感覚。 逃げ出そうと思えば逃げられる、アカウントを削除すればそれで終わりだ。だが、わかりたい、知りたいという欲望に流され、こうしていよいよ戻れないところまできてしまっている。あの男には偉そうに高説を垂れたものの、彼と私とでさして違いがあるのだろうか。 でもそうまでして、なぜこもっと知りたいと思うかなんて。そんなことはずっとずっと前からわかっている。だから、私はこれからも止まることなく、誰かさんの代理を果たしていこう。 そう思いながら、自嘲しながら、次第に帷のように降りてくる睡魔に身を委ねた。 そんな私を許すように、あるいは咎めるかのように、カーテンの隙間からきらきらと、朝日が踊る。
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