27人が本棚に入れています
本棚に追加
隣に座っていた後輩がビール瓶片手に他のテーブルへ行ってしまうと、酔いで顔を赤く染めた荒木が、
「ねぇ……俺のこと覚えてる?」
その空いた席にフワッと滑り込んできた。
こま子は、恥ずかしいのと戸惑うのとで一気に頭の中が真っ白になり、とっさに目の前の大皿に盛られた揚げ串を選ぶ演技で、その問いに聞こえなかったふりをした。
別に忘れてはいない。ただ、わざわざ今更掘り返して欲しくなかったから。もう二十年以上前のことなんだし、お互い初対面でいいじゃない、という腰の引けた気持ちがこま子の方にはある。
荒木習平は、こま子の初めてのオトコだ。
その当時でも珍しく学生寮のある大学だった。友人同士で狭い部屋一つに集まって恋バナに花を咲かせると大体話題がそこに行きついていた。
そこ、と言うのはつまり……シたことがあるかないか。
まだ未経験な子のことを仲間内では〈妖精〉と呼んでいた。誰が好き、誰と付き合っているという話題より、仲間内で誰が最後まで、〈妖精〉か? という話題で盛り上がっていた。
仲間の中で最後まで〈妖精〉でいるのは不名誉なことだと当時のこま子はなんとなしに思っていた。
仲のいい友達同士とは言ってもお互いオンナ。妙な対抗心があったのかもしれない。
今振り返れば、なんてまぁ初心でバカな女の子だったんだろう、と思う。
行為より、もっと恋をすれば良かった。
数ヶ月もすると、残っているのは、こま子ともう一人の友人だけになった。
誘われて参加したコンパ。話し上手で場を盛り上げて、着ている服もオシャレな荒木のことを狙っている女子は何人かいたはずなのに、気づいたら夜道を二人、駅に向かって歩いていた。行きついたラブホで荒木とシてしまったのは、焦りがあったから。
あっけないものだった。
そういうことをしたら……と、想像していた喜びも快感もほとんど得ることなく、〈失った……〉という喪失感がこま子の心をぽっかりと透明な悲しみに沈めた。
だから荒木と関係したのは、それきり。
最初のコメントを投稿しよう!