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夜更けの葛藤
「健吾⋯⋯行くね」
行ってしまうのか。
扉のすぐ向こう側で、弱々しい夏美の声がする。だが、その返事も待たずに、足音はひたひたと遠くへと消え去った。
静まり返った部屋は、まるで宇宙のよう。
ほんの少しでも気を抜けば、隅から忍び寄る虚無感に飲み込まれそうだ。
せめて、否定してほしかった。
いずれにしても、引き止められはしなかっただろうが。
まぶたを閉じる。
遠くの方でかすかに雨の音がする。
今夜はたしか、雨予報だったな。
夏美は傘を持って出掛けたのだろうか。
カナリヤ色のワンピースが濡れてしまう。
さっき出かけたばかりの夏美のことを、そばにいる時よりも考えていた。
あんな独りよがりのキス。
歪んだ感情をぶつけただけの。
最低だ。
絶対に俺だけは、夏美を傷付けないと約束していたのに。
それから、映画を見たり本を開いてみたけれど、どれもしっくりとこなかった。
頭の中は先程の夏美の悲しみの表情で埋めつくされていて、わずかでも、他のものが入る余地など残されていなかった。
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