9人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
承
吐き出された私の落ち着き先は、入社してもうすぐ十年になる出版社。
『もう一年経つのか、長いよなぁ。それが続くか、終止符が打たれるか』それが今日決まる、かもしれない。
いやいや、占いのようにこの晴天下に傘を持った運命の人が現れないとは言い切れない。
曇天の現実と輝ける逃避の間を、私の思考が振り子みたいに往き来し始めた時、それを止めるようにメールが着信した。
【今日の約束大丈夫?六時に駅のステンドグラス前で待ってるから】
LINEの方が手軽にやり取り出来るのに、あいつは「二人だけでのやり取りならメールでいいよ」そう言って聞かないので、ずっと私達の連絡はこれだ。
若干イラッとしたので、簡潔に答えてやった。
【了解!】
【大丈夫?調子悪いの?】
【ごめん。今、あまり時間ないんだ】
送信を押す指先に思わず力が入る。
【分かった。じゃ、また後で】
何の実りもないメールのやり取りを終えて、溜息を一つ吐く。
自分のデスクに腰を降ろすと、一日はこれからだというのに体も心も倦怠感に包まれた。
『今日は一日しんどくなりそう……』
そうして、私のネガティブな一日が始まった。
負の連鎖は続くもので、デスクに座るなり後ろから頭をポンポンされた。
誰がしてるかは予想して振り向く。
『やっぱり……こいつか』そこには礼儀を知らない女子力満点の後輩、野原香菜が立っていた。
朝から、これまでの人生で不幸を知らないような、満面の笑みを浮かべて。
「カナ……いや、野原さん。職場でそういうことはしないって言ったよね?」
眉間を指で押え『私、イラッとしてます』感を業と見せて言ってるのに、キョトンとして目を丸くしている。
「ミツホ先輩、朝から頭痛ですか?編集長、ミツホ先輩が頭が頭痛だそうです!」
『くっ、全くこいつには通じていない。それどころか、仮にも出版社勤めしてて頭が頭痛って何だよ?』怒るのも無駄だと悟り、せめて心の中でツッコミを入れる。
「あ、編集長、大丈夫です。何ともありませんから」編集長に一言伝えてから、後ろの満点女子に向き合う。
「余計なボディタッチはしない、いい?」
「はーい。でも私の頭ポンポンで頭痛になったかと思って。何ともなくて良かったです」
『貴女の頭ポンポンで気が滅入ったのは確かだけどね』そう思いながら「ほら、仕事の準備して」とこの場を抜け出したくて促した。
「あ、ミツホ先輩。何だか辛そうですね。ちょっと待って下さいね」
今度は人の言うこと聞いてるのかいないのか、そう言ってスマホをいじり始めた。
「あ、やっぱり。ミツホ先輩、今日はあまり良くない一日みたいですよ」
『ん?何?まさか……また占い?まかさね』
「ツキを回復するラッキーパーソンは傘を持った人ですって。あ~残念。今日は持ってないなぁ、傘」
『やはり来たか……傘を持つ人。もうどうでもいいけど、とりあえずラッキーパーソンが貴女でなくて救われたわ』半ばこの状況には呆れかけていた。
「ありがとう。じゃあ、仕事始めよっか。カナ……じゃない、野原さん」
『傘を持つ人……くどい。くど過ぎる。こうなったら街往く人が傘持ってないか、細目に観察してやろう』
そんな小さな決意を固めて気が付いた。
『私も何してんだろ?仕事、仕事に集中しないと』
気分を入れ換えて仕事に集中し始めたら、その後は今朝からの出来事も吹っ切れたように忘れた。
退社時刻が近づいて、この後のことが頭を過るまでは……。
そうして帰り支度をしていたら、背後に気配を感じて振り返った。
そこには今にも頭ポンポンしようとして、手を上げている野原香菜がいた。
『また性懲りもなく……』ちょっと呆れ顔になる。
「カナちゃん、何?」私は退社時刻後は呼び方を変えることにしている。
満点女子は悪戯を見つかった子供よろしく、ばつの悪るそうな笑みを浮かべて辿々しく口を開く。
「あ、あの、すみません。仕事終わったから…いいかな~って思って」
『彼女なりの配慮はしてたのか』そう思って、ちょっとだけ彼女への評価に加点してあげた。
「で、どうしたの?何か用事あったの?」
「えと、先輩ここ一週間元気無いなって気になってたんで…良かったらご飯一緒に行きません?」
『どした?どした?何が起きた?』
お馬鹿で礼儀知らずではあれ、まあそんなに悪い子ではないと思ってはいたけど、意外なお誘いに驚いた。
同時に、そんなに落ち込んだり、元気無さ気だったかな……と朝からの一日を振り返ってみた。
振り返って思い起こされたのは、今日ある決断をしなければならないこと、それに度々ちらつく「晴天下に傘を持つ人」のことだ。
それを思い出したら、頭を抱えたくなった。
『いや、だめだ』
『そんなこと、今したらカナちゃんに頭ポンポンされるに決まってる』
『あ、いやいや、今はそんなことは置いといていいんだ』
何だか頭の中が整理出来なくてなってきた。
心の中の旅路から現実に戻って、カナちゃんを見返す。
「心配してくれて、ありがとう。でも、今日はちょっと先約があって。また今度一緒に食べに行こっか」
「あっ、ミツホ先輩、デート?デートでしょ?私も前に一度会ったことある若いイケメン君だ。彼氏が先約なら仕方ない。今日は諦めます。でもいいなぁ。私も欲しいです、彼氏」
カナちゃんの言ったことは全部が正しい訳ではない。
と言うより、殆んど的を得ていないという方が正しいかも。
ただ、ここでカナちゃん相手に余計な説明をすると話しが稚児しくなるだけだし、そもそも話す必要もないので、彼女の妄想に逆らわず受け流すことにした。
「ま、まあ、そんなとこかな。じゃあ、今日は先に上がるね」
最初のコメントを投稿しよう!