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「カランッ」ドアの鈴のチャームが軽やかに店内に響いた。 開店から三十分程して、最初のお客さんが 肩に掛かった雨の(しずく)を払いながら入ってきた。 「いらしゃいませ。あ、里奈さん、こんにちわ」 私が声を掛けた最初のお客さんは、藤城里奈(ふじしろりな)さんという私より一つ歳上の大学生。 何故、フルネームで名前を知っているかというと『Books』では読んだ本の感想カードを書いてくれたお客さんに会員証を発行している。 里奈さんは度々感想を書いてくれる常連さんだ。 ちなみに、肩まで下ろしたストレートな黒髪と、落ち着いた雰囲気が上品な印象を与える彼女の好きなジャンルは、意外にもホラー小説。 「若菜さん、こんにちわ。今日の雨はすごいね。だわ」 そう言いながら、里奈さんはどこか嬉しそうに見える。 「そうですね。あ、お好きな席どうぞ」そう言ったものの、彼女の選ぶ席は想定内だ。 今日最初のお客さんで席は選び放題だし、彼女の定位置は決まっていたから。 彼女はオープンテーブルという、十人程が掛けられる大きな木製テーブルの一角に腰を降ろすと荷物を置いて、一階の本棚の合間を縫うように歩き始めた。 一通り本棚を見て回ると、二階への階段を上がり今度は二階の本棚を物色し始める。 普通のカフェだったら、まずドリンクなどを注文して……というところだけど、『Books』では本を選んでもらうところから始まる。 まず、好きな本を見つけるところから楽しんで欲しいというのが、マスターの方針だから。 暫くして里奈さんは、二階から一冊の本を携えて降りてきた。 今日の一冊は、海外のホラー小説の翻訳されたものみたい。 彼女の顔から、これから開く本へのワクワク感が伝わってくる。 席に戻ると、ホットカフェラテと焼き菓子のセットを注文して早速本を開いて読み始めている。 これがここの常連さんのスタイルなのだが、里奈さんはここからが少し違っていた。 それは見ていたらもうすぐ分かるはず。 何故なら、今日は雨が降ってるから。 暫くホラー小説に没頭していた里奈さんは、三十分程すると時々腕時計で時間を確認しては、店の入口を気にするようにチラチラ見始めた。 それから二十分ばかり過ぎた頃、再びドアの鈴のチャームが音色を響かせた。 時折、入口を見てはまた、手元の本のページに目線を落とすというパターンを繰り返していた里奈さんが、ドアの開いた瞬間、何かを確認するとそれきり顔を上げずに(うつむ)いている。 私はそんな里奈さんの傍らをスタスタと歩き、今日二人目のお客さんを迎えた。 「いらしゃいませ。香山さん、こんにちわ」彼は香山貴士(こうやまたかし)さん、二ヶ月くらい前から通っているお客さんだ。 「あ、ああ、こんにちわ。若菜さん。僕がこの前読んでいた本あります?」 そう言って控え目に笑顔を見せる香山さんは、今日もいつもの格好だ。 いつもの格好というのは……上は作業用のジャケットに作業用ベスト、下はニッカポッカという具合。 頭はツーブロックの髪を茶髪、というより金髪に近い色に染めている。 体はガッチリしているけど、無駄に筋肉は付いていないみたい。 見た目はちょっとヤンキーっぽい感じで、怖い人かな、と思ってしまうけど、中身は見た目と真逆の大人しい読書青年なんです。 「この前読まれていた……はい、ありますよ。文圃堂刊行の中原中也詩集『山羊の歌』初版本……でしたよね」 「良かった。同じ本棚ですよね。じゃあ、取ってきます」 二階に上がって行く香山さんを見て、探していた玩具を見つけた子供みたい、なんて思っていたら、同じ背中に視線を注いでいる人に気が付いた。 『里奈さん、やっぱり香山さんのこと見てるなぁ……』 二階に上がった香山さんは暫くして、一冊の古書とその他にも数冊の本を大事に抱えて降りてきた。 そして里奈さんの座るオープンテーブルの一角に落ち着くと、コーヒーを注文して本のページを開いた。 『Books』には絶版になった古書もあり、作品としての本を楽しむ他、古書などの希少本に触れることもできる。 本好きのお客さんがこの店に集まる理由は、この辺りにあるのだと思う。 一応、電子書籍を読むお客さんの為に、タブレットも置いてるけど、殆どのお客さんは実物の本を選ぶ。 マスターがよく言う「紙のページを(めく)る楽しみ」と言うのはこういうことかも。 席に着いて中原中也の世界に没頭している香山さんと違い、その斜め前に座る里奈さんは、落ち着いている風を装いながらも、時々香山さんをチラ見している。 何故こういう構図となるかというと、香山さんはこの近くのビルの建築工事に従事していて、雨が降って休工になるとここに来て本を楽しんでいる。 それが始まったのが二ヶ月程前の話し。 最初に香山さんが来た日、偶然里奈さんも来ていて、それ以来、雨が降る――里奈さんが来る――香山さんが来る、という雨の日連鎖が『Books』で起きている。 『里奈さん、どうするつもり何だろう?』 里奈さんの気持ちか何処にあるのか、私とマスターは里奈さんの様子から何となく分かっている。 ただ、香山さんは里奈さんをどう思っているのか……それは何とも言えなかった。 二人はいつも同じ雨の日に、同じ席に座って時間を過ごしている。 三回目くらいからは、時々言葉も交わしていているようだし、いい雰囲気なんだけど互いに一歩を踏み出すには至っていない感じだ。 今も時折、ちょっと辿々(たどたど)しく会話というより言葉繋ぎ、と言った方がいいような言葉を交わしている。 「あ……こんにちわ。今日、お休みですか?」 「あ、はい。雨……ですからね」 「そうですね。雨、ですもんね」 「…………」 「…………」 私は決して短気なんかじゃない。 いや、むしろのんびりしてると言われることだってある。 でも、この二人を見てると、例え二人にその気があっても恋愛に辿り着くのに百年掛かるんじゃないかと思えてきてヤキモキする。 それに百年掛かるかはさておき、二人にはそんなに時間を掛けられない事情がある。 それは私が香山さんから聞いた話しで、里奈さんはそれを知らない。 『それを知った時、里奈さんの気持ちはどう動くのだろう……』 私は機会を見て、香山さんから聞いたその話しを里奈さんに伝えるつもりでいる。 暫くすると、香山さんは時計を見て慌てて帰支度を始めた。 私のその決心が届いた訳ではないだろうけど、香山さんは仕事の同僚と食事に行くと言って、いつもより早く本読みを切り上げて店を後にした。 香山さんが店から出た後、何処か物悲しい目で里奈さんはドアを見詰めている。 「香山さん、珍しく慌ててましたね」ちょっと迷ったけど、心ここにない里奈さんに声を掛けてみた。 「え?あ、そうね。珍しいよね。慌てるところなんて想像出来ないもんね」 「そうですね。香山さんってギャップのある人ですよね」 「そうだよね。見た目あんなにワイルドなのに、詩を愛する繊細な人なんだもん。最初、驚いちゃった」 香山さんの話しをしている里奈さんは、目を細めて嬉しそうだな。 明らかにテンションが高くなっているのを見て、私は確信した。 『里奈さんは間違いなく、香山さんを……』 私は僅かに戸惑ったけど、言葉を慎重に選んで香山さんから聞いた話しを伝えようと切り出した。 「あの、里奈さん。この前、香山さん言ってたんですけど、もうすぐ今の工事現場の仕事終わるって……」 里奈さんは俯いて小さく(うなず)いた。 「うん。知ってる……。香山さんの現場、時々通るから。段々出来上がってくるなぁって……。はは、当たり前だよね」 「次の現場って、遠いから……工事期間の数ヶ月は会社の用意する寮住まいらしいです」 里奈さんは『はっ』として、(うつむ)いていた顔を私に向ける。 でも、また直ぐに(うつむ)き「そっか……」小さな溜息交えてそれだけ(つぶや)いた。 「若菜さん、ありがとう。教えてくれて。整理つくわ」 私は里奈さんの意外な言葉に思わず驚いた。 「えっ?里奈さん、ちょっと。いいんですか?」 「うん?何が……?」 「何って……。香山さんと気持ちまで離れて…いいんですか?」 「う~ん……はぁ……まあ、良くはない…か。でも、私って目茶苦茶、緊張して面と向かって話しなんて出来ないし、親しくなるまでの道程(みちのり)を考えたら、気が遠くなる……」 『た、確かに。成就するまで百年掛かる恋とか、思っちゃったけど。』掛ける言葉を探していると、里奈さんは、らしからぬ行動に出た。 肩まで下ろした艶やかな黒髪に両手を突っ込み、頭を抱えるようにクシャクシャに掻きむしって、何か(つぶ)いている。 「だめ、だよぉ……。急に距離を詰めるなんて……出来ないよ。私の恋なんて、きっと亀さんが歩くか、毛虫さんが這うくらいノロノロなんだから……」 黒髪に両手を突っ込んだまま、両肘をテーブルに着け(うつむ)いている里奈さんを前に、私は途方に暮れるしかなかった。 『どうしたら残り少ない時間で二人の心を繋ぐことが出来る……?里奈さんの気持ちを香山さんに伝えるにはどうしたらいい?』 答えを求めた訳ではないけど、何気なく香山さんの座っていた席を見た―その時、一冊の文庫本の存在に気付いた。 『室生犀星……愛の詩集……?香山さん、慌てて返し忘れたんだ……』 読み込まれた感のあるその本を手に取ると、本には(しおり)が挟まれている。 『あれ?(しおり)まで挟んだまま忘れてる……』 私は栞の挟まれたページを(めく)り、そこに記された一編の詩に目を止めた……。 そして……髪をクシャクシャに乱して、(うつぶ)せる里奈さんの脇で私はその文庫本を両手でギュッと握り締めた。 その瞬間、私の中で全てが繋がった。 香山さん、里奈さん、ここカフェ『Books』――。 そしてたった一冊の本……。 「……これだ。」 私の呟きに、半分泣き顔のような里奈さんが顔を上げ、見上げる。 「え?何?」 私を見上げて、ポカンとした表情の里奈さんの鼻先に、握り締めた文庫本を突き出した。 「里奈さん、これだよ。うん、これしかない」
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