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さそり座の針~その1
矢名瀬美乃は憂鬱だった。
入学して十日目──
談笑に耽るクラスメートを尻目に、彼女は一人参考書を広げていた。
ここは、私立梁山高校。
国内でもトップレベルの進学率を誇る超難関校だ。
ここに入る為、色々なものを犠牲にしてきた。
クラブ活動は勿論、友達付き合いも切り捨てた。
遊んでいる暇など無いからだ。
そうまでして志望した動機はただ一つ。
ここでは、成績次第で三年間学費免除も夢ではない。
母子家庭の美乃にとっては、願ってもない条件だった。
当然の如く、入学を果たしたこれからが勝負となる。
同級生の学力も並大抵では無いはず。
これまで以上に頑張らねば……
クラスメートなどただの競争相手──
勉強以外は全て不要──
……の筈だった。
つい今しがたまでは……
美乃は深い溜息をつき、黒板に目を向けた。
『クラス委員』の下に自分の名が書かれている。
クラス委員は生徒会組織に属し、クラス内投票で選ばれる。
噂では、かなり忙しいらしい。
だから、誰もやりたがらない。
皆が早々にグループ作りに奔走するのも、このためだ。
お互いに選ばないよう予防線を張る。
グループに属さない一匹狼の美乃が、ターゲットとなるのは当然なわけだ。
だが問題なのはそこでは無かった。
自分と並んで書かれた名前……
ーー滝宮凪
クラスメートだ。
信じたくはないが……
クラスメートだ。
最後列の窓際に座っている、とてつもなく影の薄い男子。
頬杖をついてぼんやり窓外を眺めている。
大きな欠伸をしては、涙目を手で擦る。
自分がクラス委員に選ばれた事など、全く感知していない様子だ。
口数が少なく、何を聴かれても「はぁ」としか答えない。
案の定、すぐにクラスの槍玉に上がってしまった。
男子の間から出た「あいつ、とんだ腑抜けだぜ」という言葉から、いつの間にか「フヌケ」があだ名となった。
男女問わず、まともに名前を呼ぶものはいなくなった。
本人はと言えば気にする様子も無く、「おい、フヌケ」と呼ばれても「はぁ」と返事をしてしまう。
他者に関心の無い美乃ですら、あまりの不甲斐無さに頭に血が上る程だ。
そしてよりにもよってこのフヌケ……失礼、滝宮何某がペアとなってしまったのだ。
どこをどう見ても、まともに仕事が出来るとは思えない。
これが、憂鬱の最大の原因だった。
「じゃあこれでクラス委員は決定ね。早速だけど今日の放課後に初会合があるのでよろしく」
担任の畑中教諭の言葉が、無情に鼓膜に突き刺さる。
こちらに、視線を向けようともしなかった。
クラスメートたちの含み笑いを感じながら、美乃は渋々頷いた。
こうなったら腹を決めるしか無い。
二人分の働きをして、何とか内申書の評価に結びつけてやる。
ポジティブに考えるのよ、美乃!
あなたなら出来る!
自分へのエールを送り続けるうちに、終業のチャイムが鳴った。
(うっし!)
オッサンめいた気合を胸に席を立つ。
「滝宮くん、ちょっといいかしら」
そのまま少年の席へと移動し、凄味を利かせた口調で話しかける。
凪は、視線を窓外から彼女の方へと移した。
痩身で天然ヘア、生気の無い目元を除けば、それなりに端正な顔立ちと言える。
ただ目を合わせた途端、大きな欠伸を放たれたのにはさすがに腹が立った。
「ぼぉぉ……っとしてるとこ悪いんだけど、今から会議があるので一緒に来てもらえるかしら」
思わず、皮肉が口をついて出る。
感情的になるまいと心していたのだが、数秒ももたなかった。
「分かってると思うけど、私たちクラス委員に選ばれたの」
何の反応も無い。
不思議そうに首を傾げるだけ。
「クラス委員よ。このクラスのお世話係。お・せ・わ・が・か・り……ワカリマスカっ!?」
まるで外人との会話だ。
「はぁ……」
少年の口から、初めての肉声が漏れた。
これが噂に聞く【はぁ】らしい。
だがどういう意味かさっぱり分からん。
「はぁって……もう、いいからとにかく一緒に来て!」
美乃は痺れを切らし、強引に凪の袖を引っ張った。
本人に自覚は無いがこの少女、実はかなりの短気だった。
蒟蒻のようにくねる少年を従え、美乃は足早に教室を後にした。
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