理想の記憶

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 僕は会社に走った。  夜10時、会社にはまだ煌々と明かりがついている。  オフィスに駆け込んできた僕を見て、まだ残業していた何人かの人が振り向いた。  僕は「ちょっとやり忘れていたことがあって」と言いたげな表情を作りながら、自分の端末にたどり着く。  ログイン画面が立ち上がるや否や、僕はこっそりと隠し持っていたあるパスワードをそしららぬ顔で打ち込む。  それは、僕などは到底およばない、役職者以上の者しか持つことの許されないパスワード。  数年間の仕事の人間関係の中で、偶然手に入れたものだった。  そこから僕は、彼女の登録情報を探し出す。  やっぱりだ。あの有名バンドマンの彼女としての記憶を、彼女はサブスクに切り替えてずっとずっと、繰り返し見ている。  もはや消失期限のない、嘘の記憶。  そんな記憶は本人にとって、すでに事実と同義語だ。  僕はその役職者アカウントの権限で、彼女のサービス契約を解除しようとした。  現実の人生に立ち返れば、彼女はきっと戻って来てくれるはず。  その時だった。  『記憶による国民統制・洗脳計画』と題された、別の文書が画面上に見えたのは。  とっさに気を惹かれた僕は、そのファイルを開く。  それは政府による記憶操作計画の概要。  捏造された記憶を無期限に埋め込むことで、国民としての帰属意識とアイデンティティーを高めることが狙いだという。 「なにこれ、自殺防止とかが目的じゃないのかよ……」  僕は急いで読み進める。  実際、この計画がほぼ全国民に完了している国が、近隣にはいくつかあるらしい。  彼らには、自分たちが『世界最高の民族』だと、あるいは『あらゆる文化の起源』だと、はたまた『慰安婦問題や虐殺の一方的な被害者』だという記憶が永遠に埋め込まれ、どうやらそれは政府にとって非常に都合がいいらしい。  気が付くと、僕は背後に気配を感じた。 「いけない事をしているね、川上クン」  それは秋野の声だった。  刹那、全身に強烈な痺れが走り、僕は体の自由を失っていた。  そして僕の体内のマイクロチップに、大量の記憶が強制的に流れ込んでくる。  我々は、神の風に守られた国の民。  我々は、みなサムライの末裔。  我々はとても優しい民族で、おもてなしに長けており……  目の前が真っ白になった。  しかしそれは抗いがたい、甘美な感覚だった。  こうして僕が生き、信じてきた世界は、そんな美しい嘘と共に消え去っていった。               ーーー  カーテンの隙間から覗く日の光と共に、僕は目を覚ました。  寝ぼけ眼で枕元の携帯を手に取ると、朝7時。  2050年に生きているとついさっきまでと思っていたが、日付は2021年6月。  どうやら、僕は夢を見ていたようだ。  どこまでが夢で、虚構だったのか、いまいち自信がもてないが。  しかしそんなことはどうだっていい。  なにしろ僕たちの国は世界一美しい国で、その証拠にもうすぐ、世界最高のスポーツイベントがやってくるのだから。 (完)
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