小瓶のある生活

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 熊谷が校門前でたたずんでいると、城崎が校舎から駆け寄ってくるのが見えた。図書室の鍵を職員室に返すので待っててほしい、といわれていたのだ。そんなに慌てなくてもいいのだが、どうやら年長者を待たせたくないらしい。  律儀な後輩だった。  学生鞄を自転車のかごに入れてやり、二人並んで歩きだした。  彼女の家は、市内を北に向かったところにあるという。去年、そこへ引っ越したばかりだともいった。  彼の自宅が同じ方向だと説明すると、彼女は嬉しそうな顔をした。  それに彼が何か話すたびに、静かにうなずきながら共感をこめて話に聞き入っている。ときどき親しみがこもった口調で冗談をいうこともあった。  穏やかな時間が流れていた。  今日の彼は、交差点の信号が少し明るく見えるのだった。 「そうですか。先輩は元サッカー部だったんですね。どうりでいい躰してると思ってました」  二人が横断歩道の点滅する信号を見て、立ち止まったところだった。彼女は彼の頭の先から足の先まで眺め回し、立派に育ったこどもを見るような表情でうなずいている。 「でも、どうしてやめちゃったんですか?」 「試合中の怪我だよ。ヘディングシュートを決めたまでは良かったんだけど、着地に失敗してアキレス腱を切ったんだ。今はもう何ともないんだけど、いろいろ思うところがあって結局退部することにした。ほんとはやめたくなかったんだけど」 「けど?」 「もう練習についていけなくなったんだ。たった半年のブランクだったけど、ぼくのプレーに切れがなくなっちゃって。これ以上は無理だと諦めるしかなかった。それに一緒に入部した友達の足を引っ張るのも嫌だったしね。だから、もうきれいさっぱりサッカーのことは忘れることにしたんだ」 「忘れられそうですか?」 「どうだろう。小学校からずっとやってたからね。サッカー少年のぼくが、すぐに忘れようなんて無理なのかもしれない。だって、ついこの間まで部活に復帰することだけを考えて、通院中も筋トレだけは欠かさずやっていたし。ほんと、こんなはずじゃなかったんだけどな」  二人は横断歩道を渡りだした。  ふと見ると、城崎が何か考え事をしているようだった。  車道の大きな水たまりを気にしているわけでもなさそうだ。少し心配になったが、声はかけなかった。 「先輩、気を落とさないでください」  部活帰りに立ち寄っていたラーメン屋の前で、唐突に城崎は口を開いた。  真顔で見つめられて、思わず熊谷は自転車のペダルに足を引っかける。 「人生楽ありゃ苦もあるさ、って水戸黄門の歌があるじゃないですか。くじけないで頑張りましょうよ。そのうちいいことがありますって」 「なるほど。それはそうかもしれないな」 「そうですよ。とりあえず今日は一つありましたよね」 「そうか? なんかあったっけ」  思わせぶりな態度をとる彼女にちらと目を向けた。  彼女は何かいいかけたが、急に風向きが変わり、肌寒い風とともに小雨が降り出すと、さっと顔色が変わった。  黒く濡れ始めた歩道からコンクリートの匂いが立ち上ってくる。  彼は慌てて自転車にまたがった。「城崎、早く後ろに乗れ」 「駄目です先輩。二人乗りになりますよ」 「いいから早くしろ」  すぐさま彼女は荷台に飛び乗り、両腕を彼の腰に回した。「先輩って、意外と強引なんですね。でもそういうの、嫌いじゃないですよ」 「お世辞はいいから。それよりしっかりつかまってろよ」  彼がペダルを踏み込む足に力を込めると、彼女の腕にも力が入った。  市内を北に向かってペダルをこぎながら、消防署を通り過ぎるころになると、彼は胸のあたりに疼きを感じ始めていた。体温が上がり、血流が激しくなったことが良くないのだろうと思った。  急ごう――。  彼女は、あと五分ほどで着くといった。  その時すでに、気まぐれな雨雲は空の向こう側へ去り、陽が射してきたのだが、胸の疼きはひどくなる一方である。  歩道のない車道で追い越される車からクラクションが鳴らされても、彼はひたすらペダルをこぎ、彼女は彼にしがみついていた。 「先輩の背中って大きいんですね」 「申し訳ないけど、このまま行くからな。ちょっと緊急事態なんだ」 「どうしたんですか?」 「胸のあたりがうずくんだ。痛くて痒くてつらい」 「わたしもです。さっきから胸の奥がうずくんです」 「おまえもムカデに噛まれたのか?」 「違います。なんていうか心臓がぎゅっと締め付けられているような感じなんです。こんなこと初めてでよくわかりません」 「それなら一度病院へ行ったほうがいいかもな」 「大丈夫です。このままじっとしてれば治る気がします」 「そうか。でも無理すんなよ」  とにかく早く城崎の家に行こうと思った。声の調子からいっても元気そうだったが、なんとなく心配になってくる。  そんな彼の思いをよそに、荷台に座る彼女は何もいわず、ただ彼の背中に頬をうずめていた。  緩やかな下り坂は、三つ目のバス停を過ぎても、まだ終わりが見えてこなかった。    *    
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