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城崎の家は青い屋根の二階建てだった。
駐車場に一台のセダンが見える。学校のどこかで見たような気がしたが、白いトヨタ車なんて巷にあふれているので、そのまま素通りした。
「先輩。こっちですよ」
熊谷が通されたのは小綺麗な和室だった。
『忍耐』と書かれた掛け軸が壁に吊られている。丸い卓袱台のほかにはエアコンもなく、少し蒸し暑く感じた。
先回りするように城崎がサッシ窓を開けると、庭を取り囲むブロック塀が見える。涼しい風が入ってくると、こころなしか室温が下がった気がした。
その頃には胸のうずきがいくぶんおさまっていた。
ふすまの向こう側に父親がいると訊いて、あいさつでもと考えたが、すぐに彼女に止められた。今まさに、大相撲名古屋場所の最後の取り組みが始まるところらしい。
急がなくても大丈夫だと訊き、彼女のいうとおりにした。
「先輩。薬を持ってきますから服を脱いで待っててください」
彼女は足早に部屋を出ていった。
いわれたとおりに上半身裸になってあぐらをかいていると、廊下にいた女の子がじっと彼を見ていることに気がついた。妹かなと思い、声をかけようとすると、目が合った瞬間にそそくさと去っていった。
仕方ないか――。
初対面の高校生で、しかも上半身裸なのだ。それにあざみたいなものが胸に大きく広がっている。
彼は頭をかき、苦笑した。
*
「これがおじいちゃん特製の薬です。びっくりするぐらいよく効きますよ。うちのお父さんもこれだけは感心していました。これを塗れば、明日にはそのあざが消えると思います」
城崎が持ってきたのは、ジャムの空き瓶に入ったどす黒い液体だった。
おそるおそる彼は「それはその……何だ?」と尋ねた。
彼女から説明を聞いた彼は、思わず背筋がぞっとした。
不気味な色をしたそれは、食用油に生きたムカデを数匹漬け込んだものらしい。それもでかいやつだ。数ヶ月もすると、油に溶け込んでしまうという。
正しい名称は不明だが、それを『ムカデ油』と城崎家では呼んでいるらしい。
マムシ酒というのは聞いたことはあるが、果たしてこれは大丈夫なんだろうかと疑問に思った。
いつの間にか彼は後ずさり、背中が窓際の壁にぶつかっていた。
彼女は救急箱とムカデ油を手に下げて、じりじりとにじり寄ってくる。
彼の目は暗くなり、頬が引きつっていた。逃げ場を探そうとするも、すでに行き止まりだった。むなしく足が畳をこするだけである。
「どうしたんですか? おとなしくしてください」
彼女はそういって彼が伸ばした両足の上に腰を下ろし、動きを封じ込める。
彼は観念したかのように目を閉じて、怯える表情になった。
「優しくしてくれないか。少し怖いんだ」
「わかりました。でも動いたら駄目ですよ」
彼女の手が彼の胸板に触れた瞬間、彼の躰がびくっと跳ねた。
彼の固く閉じられたまぶたを見た彼女は、息が少し荒くなった。それになぜか、かすかに頬が紅潮していた。
その時、灰色のブロック塀の上を一匹の三毛猫が歩いていた。三毛猫は立ち止まり、二人のようすをうかがうように首を伸ばしている。三毛猫は肩幅の広い男子生徒と小顔の女子高生をじっと見ていた。それから三角に尖った耳をぴくぴく動かして、聞き耳を立てていた。
「先輩。信じないかもしれませんが、今のわたしには大人の扉が見えます」
「何のことだ。意味がわからない」彼は眉をひそめる。
「大人の階段の先にあるやつです。わかりますか?」
「おまえ何いってんだ? それより頼むから早くしてくれよ。あと、いっておくが、そんな扉はどこにもないからな。もしあったとしても鍵をかけてくれ」
彼女から返事がないのが、かえって不気味だった。
耳に入るのは彼女の荒い息遣いだけ。
身の危険を感じ始めた彼は身もだえるが、それがますます彼女を刺激しているようだった。彼の胸に不安の雲が渦巻いたが、目を開ける勇気はない。
それでもこれは治療なんだと彼女を信じていると、なぜか両肩をがっしりとつかまれる。
何が始まるんだ――?
たった数秒で彼の緊張は最高潮に達した。
「おとうさーん。お姉ちゃんが男の人とキスしようとしてるよ」
女の子の声が家中に響いた時、二人の一部始終を見ていた三毛猫は落ち着き払って香箱座りを始めた。まるで哲学者が瞑想でもするように薄く目を閉じている。
しばらくすると、ふすまが開かれた。
姿を現したのは四十代半ばの男性だった。「おまえたち、何してるんだ」といって目を丸くした。
城崎が不服そうに顔をしかめたところで、熊谷が目を開けた。彼は担任の教師の顔を見て、あっといいそうになった。
「おまえ、熊谷じゃないか。裸になって、うちの娘と何してんだ」
「城崎先生、どうしてここに?」
「お父さん、先輩の治療の邪魔しないでよ。あっちへ行って」
「お姉ちゃんのエッチ。ぜったいキスしようとしてたでしょ」
三毛猫は大きなあくびをした。それから、あたかも哲学的な難問を考えているような思慮深い顔つきで、再び薄く目を閉じるのであった。
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