小瓶のある生活

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 両親の馴れ初めを聞き終わった熊谷ほのかは、コルク栓の小瓶に入ったどす黒い液体を眺めていた。 「これが例のムカデ油なの? ママのおじいちゃんが丹精込めて作ったとか何とかいってたけど」  熊谷は小瓶を手にとった。「いや、これはほのかのおじいちゃんが作ったやつだ。毎年のように送ってもらうんだけど、このマンションで使うことはないだろうから、ほのかに譲るよ」  熊谷美里は夫から小瓶を受け取る。「ほんとにこれはよく効くのよ。パパのあざだって、あっという間に治ったんだから」頭を大きく縦に振った。  ほのかは疑うような目つきだった。  生きているムカデなんて見たことがなかったからだ。かといって、死んでいるのも見たことないけど。  ほのかは頭ではわかっているつもりだが、まるで実感がわかない。それに見た目も気持ち悪かった。いくら効果抜群といっても、初めて見た父親が怯えるのも無理はないと思った。  気は進まないが、美里から小瓶を受け取る。 「とにかくそれを持っていくといい。広島にだってムカデはいるはずだ。ましてや旦那さんの実家は一軒家なんだろう? やつらは数センチの隙間でもすぐに入り込んでくる。油断したらいけないよ」 「そうよ、ほのか。パパのいうことを聞きなさい。パパはね、自分の実家もそうだけど、大学生活でも、新婚生活でも、それはもうムカデに噛まれまくって大変だったんだから。ママがいなかったらとっくの昔にショック死してたかもしれないわね」 「そういうこともあってパパとママはこのマンションに引っ越したんだよ。ほのかが生まれる前の話だ。 ――そうか、おまえとこうしてゆっくり話せるのもあと少しか。そう考えると、寂しいな」 「仕方ないよ。彼が病院の跡取り息子だなんて、大学で付き合いだしてから訊いたわけだし。でも、ごめんねパパ。わたし、彼についていくから」  *  ほのかは唇のすぐ下までお湯に浸かり、目を閉じて考え事をしていた。  大学生の頃は髪を長く伸ばしていたが、就職活動する時に思い切って短くしてみた。髪を洗うのにも時間がかからないし、今は気に入っている。  さっとリンスまで終えて、頭にタオルを巻き、湯舟の中に躰を沈める瞬間が一番好きだ。あとどれくらい、こんなことを続けられるのだろうかと思う。嫁ぎ先でもこうしていられるのだろうか。  プロポーズされて両親に彼を紹介してから今日まで、わかりようのない先のことを考えるようになった。来月は引っ越しと結婚式が待っている。それから新婚旅行が終わると、いよいよ彼の実家での同居生活が始まるのだ。  準備は万端だが、なぜか落ち着かない。  そう、あとは気持ちの整理だけ――。  そっと目を開ける。  ゆらゆらと揺れる湯面と心が重なり合う。  小さな溜息とともに、もう一度目を閉じた。  初めて両親に馴れ初めを訊いてみたが、なかなかに面白かった。  しかし、二人を結びつけたのがムカデだったとは予想さえしていなかったけれど。  だけど、あの小瓶は彼の実家には持っていけないだろう。  だって、彼の病院は皮膚科と内科なんだから。  医者の妻があんなものを持っているなんてとんでもない話だ。  黙って捨てることにしよう――。  ほのかは「ごめんなさい」とつぶやいた。  *  その頃、元高校教師の城崎は、小包の宛名書きに忙しかった。 「お父さん、何してるの?」パジャマ姿の女性が尋ねた。  白髪頭の老人が顔を上げる。「ほのかが結婚するじゃないか。だから嫁ぎ先に送ってやろうと思ってな」老眼鏡のレンズがきらりと光った。 「それいいわね。そうだ、あたし何を着ていこうかな。それにしても、うちの旦那と子どもたちも結婚式に招待するなんて、あの子の旦那も気前いいじゃない」 「来月なんてあっという間だぞ。もしかすると、ひ孫を抱く日が近いうちに来るかもしれん。長生きはするもんだな」  城崎は隣の和室に小瓶を置いている。  それは『忍耐』の掛け軸のそばで、窓から射し込む月光を受けて輝いていた。 (おわり)
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