小瓶のある生活

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 放課後、生あくびをかみ殺しながら、図書室に入った熊谷(くまがい)は、一番奥の本棚までゆっくりと進み、足を止めた。それから何かを思い出すように振り返り、あたりのようすをうかがっている。静かに目を閉じた彼は、本棚から漂う独特の紙とインクの匂いをたっぷりと肺に吸い込んだ。  彼は目を開ける。  室内は、受付カウンターに女子生徒が一人、その前に陣取っている閲覧席に男子生徒が一人、それぞれ腰掛けていた。  彼の鋭い視線は閲覧席、それも一番奥の窓際の席に向いている。  狙いを定めた彼は、迷うことなく足を進めていた。  なんなくコーナー席についた熊谷は大きく背伸びをした。窓の外に目をやると、田舎町の外れまで陰鬱な雨空が見える。今日の降水確率は五十パーセントなので、もしかするとすぐ止むのかもしれないし、降り続けるのかもしれない。しばらく考えて、自転車通学だった彼は運を天に任せることにした。  彼は視線を戻す。  湿気だらけの教室よりも、この図書室はすこぶる快適な場所だった。  腕を組み、目を閉じる。  ベタつく背中の不快感以外に彼の眠気を妨げるものは何もなかった。室内の静けさも手伝い、いつしか彼はまどろむのだった。  * 「あのう――すみません」  聞き慣れない声で目を覚ました。熊谷のぼんやりとした視界に髪の短い女子生徒の姿が飛び込んでくる。しばらく顔を眺めていたが、向こうもじっと彼の顔を見下ろしていた。 「少しだけ手伝ってくれませんか」  誰――?  彼女がいっていることが、すぐには理解できなかった。ただ困っているような表情なのは確かだった。さっきまでいたはずの男子生徒の姿はなく、彼女は間違いなく彼に話しかけていたのである。 「ええと――なにを?」  ようやく頭が整理できたのは、か細い声で説明を訊いた後だった。返却された本を棚に戻したいのだが、小柄な躰では上の段まで届かないという。いつもなら備え付けのような小型脚立を使うとのことだが、今日に限ってなぜか見当たらないらしい。  女子生徒は図書委員だった。  彼はお人好しではないが、本を読まずして惰眠をむさぼる後ろめたさには勝てなかった。そこで、今ここでやるべきことは、目の前にいる気の毒な後輩を助けてやることだと判断した。 「遠慮しなくてもいいよ。で、どうすればいい?」 「その前に先輩。よだれが」  はっとして口元を触ると、確かにだらしなく濡れていた。躰がかっと熱くなり、慌ててハンカチで口を拭いた。くすくすと笑う声を聞くと、さらに体温が急上昇してくる気がする。途端にうなじから汗が吹き出してきたので、夢中でそれも拭いた。 「先輩。今度から本を読んでくださいね。ここは図書室ですから」  追い打ちをかけられた彼は顔を赤くする。  こいつ、わざといってるな――。  そんなことわかってると言いたいところだが、何もいわず、飛び上がるように立ち上がる。今度は女子生徒が熊谷の顔を見上げる番だった。一年生の学年章が彼の目に入ったところで、先輩としての威厳を示すように口を開いた。 「後輩。本気になったぼくの実力をとくと見るがいい」  言い終わった瞬間、彼女は目をそらし、さらに背を向ける。なぜか小刻みに震えているのは、忍び笑いをしているせいだろう。別に受けを狙ったわけではないが、意外にも彼女の笑いのツボを強く刺激したようだ。  彼女が落ち着くまでの時間がとても長く感じられた。  どうやら笑い上戸らしいと思いながら、窓の外をぼんやりと見つめていた。 「ほんとに助かります。背伸びしても届かなかったんで、どうしようかと悩んでたところです。それにしても先輩、いいところに来てくれましたね。まるでこうなることがわかってたような立ち居振る舞い。感激しました。後輩思いの優しい先輩に出会えて、わたしは幸せ者です」  おとなしい後輩だと思っていた彼女は意外と饒舌だった。本を棚に戻す作業の傍らで、ずっとこんな調子で喋りっぱなしだったのだ。  少し黙ってもらえれば、格段に早く済むのだが。  後輩は城崎(しろさき)美里(みさと)、と名乗った。  その名字がなぜか頭に引っかかるが、それよりも相槌を打つのに忙しくて、すぐにどこかへ飛んでいってしまう。  席に戻るころには、窓から陽が射すようになった。  他の生徒が来ることもない。もう棚戻しをお願いされることもなさそうだ。  城崎はカウンターで何やら書きものをしていた。  帰宅するにはベストタイミングだと思い、ようすをうかがうことにする。  頃合いを見て、腹筋に力を入れた途端、 「先輩。わたし、トイレに行ってきます。少しだけここにいてください」  と、いわれた。  先手をとられた気分になったが、これはやむを得なかった。  それに『いってらっしゃい』という間もなく、足早に彼女は出ていった後だったから。  * 「先輩、起きてください。時間です。もう閉めますよ」  熊谷は肩を揺らされていた。彼が寝ぼけ眼を城崎に向けると、彼女の手が離れた。 「また寝るなんて、しょうがない先輩ですね」彼女は笑いながら彼の隣に座った。  彼は頭をかいて、「少しばかり寝不足なんだ」と言い訳した。 「なにかあったんですか?」 「うん」  彼はうなずいた。「今朝の話なんだけど、布団で寝てたらムカデがぼくの胸を這いずり回ってたんだ。びっくりして手で追い払おうとしたら、逆に噛まれちゃって。ほらこのとおり、ひどい有様だよ」 「ちょっと見せてください」  開襟シャツのボタンを外し、下着をまくり上げて胸元を見せる。  手のひら大に皮膚が赤黒くなって、誰が見ても痛そうだった。  驚いた彼女は間髪入れず、 「先輩。わたしんちに行きましょう」といった。  彼がためらう素振りをすると、 「おじいちゃんが作ったとっておきの薬があるんです。ぜひお礼をさせてください」とつけ加えた。  *
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