潮騒と息の音

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 いつしか僕は死に逝くことに憧れた。いつかこの不自由な人生から解放されるためには、死ぬこと以外あり得ないと思い続けた。どれが本当の死にたい理由かなんて、もはや分からなかった。ただ、死ぬことが最適解だと思っていた。  しかし、いざ死に瀕して分かった。心地よい息の音が自分の体から鳴ることが、どれだけ素晴らしいことかを実感した。死にたくない、と久しぶりに思った。幼い頃の死ぬことを怖れていた自分を思い出した。  まだ幼かった日々の、あの瞬間も、溺れることを、死ぬことを怖れていたな……暗い闇のような水に、懐かしい少女の顔が浮かんだ…… ーー君は、あの時の……  気がつけば、砂浜に流されていた。反対側には例の水死体が浮かぶ崖がある。どうやら土左衛門にはならなくて済んだらしい。 「気がついたかしら?」 「ああ、生きていてよかったよ」 「あなたは、2度目よ。2度、この海で助かった。覚えているかしら?」 「海の中で思い出したよ。僕はあなたに助けられたことがある。幼い頃に、この海に来たんだ。この波打ち際で泳いでいた。それで、どこまでも遠くに泳いで行こうとしたんだ。そしたら、足のつかないところまで行ってしまったんだ。足がつかないのはとても怖かった……  流された時に、年上の女の子に助けられたんだ。女の子は、僕が息を吸えるように、砂浜に戻れるように懸命に助けてくれた。でもどこかで離れ離れになったんだ……僕は、女の子のお陰で、砂浜にたどり着いたけど……」 「ええ。私は死んだわ」 僕はなんて言えばいいか全く分からなかった。このかつて生きていた少女は、僕を助けるために死んだのか。 「ごめんなさい……」 「構わないわ。私が選んだことだから。実を言うと、私も死にたかったの。私の方こそ、ごめんなさい」  少女は一人、寂しそうに話しだした。 「私は、10代の頃から、この宿を手伝わされたの。まあ、そこまではいいわ。しかし、タチの悪い客がね。ここの従業員が、財布を盗んだとか言いがかりをつけてきたの。それで、一番若くて動揺していた私が犯人扱いされてね。若すぎた私は、動揺とショックのあまり、死のうと海に飛び込んだの。そしたら、溺れている君を見つけた」 「別にあなたは死ななくてよかったのに」 「私も最期は死ぬつもりはなかったけど。溺れている君に呼吸をさせようとして、水中から君を持ち上げるように泳いでいたの。そしたら、私も足がつかなくなって……気がついたら大きな波が打ち寄せてきて、離れ離れになったわ。私は流されて、君は砂浜に打ち上げられたのね。とりあえず生きていてよかった。あの時も、今も」 「僕もそう思うことができました」 「ここで溺れた人は皆、死のうと思ってこの海に来たとしても、最期に自分の人生を振り返った時に、やっぱりまだ生きたかったと後悔しているわ。  生きるということは様々な側面があるかもしれない。もちろん嫌なことも、苦しいことも。でも息の音が続く限りは、それを無理やり止めるようなことなんて、してはならない。この海の潮騒が止まないように。終わりの時まで、自らの呼吸を止めてはならない。  けれど、どんな人生にも終わりは来るわ。潮騒は永遠に、息の音は刹那に……私はここで、そう悟ったの。  本当は、あなたも嫌なことばかりではなかったのでしょう?」 「ああ。そうだね。暗く冷たい海の中で溺れて思い知ったよ。息の音を立てられる喜びを……生きる喜びを……  僕は、残りの人生を、自分らしく生きようと思う。人に言われると綺麗事に感じていたけれど、その価値と意味を知った今は、言葉の重みがわかる……助けてくれてありがとう」 「人生の健闘を祈るわ。私の分も生きてね」 少女は微笑んで、祈るように目を閉じ、耳を澄ました。彼女からは息の音が聞こえない。やがて、彼女の体が、曖昧に、幽かに揺らめいて、海に溶けていった。 僕も、目を閉じ、波打つ海に祈りを捧げる…… 今はただ、潮騒と僕の息の音が、真っ暗な海に響いていた。
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