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宿に戻ると、ラウンジで驚くべきものを見つけた。それは少女が宿の女給をしている写真だった。だから、ここの海の事件について詳しいのかと妙に納得した。しかし、少し古びた感じがしたのが、一瞬だけ気にかかった。まあ、潮風の強い場所では劣化も激しいのだろうとも感じたので、気にはしなかった。
気づけば夕飯の時間だった。今頃死んでいたつもりだった自分にとっては、夕飯を食べるのは想定外だったが、夕飯は地元で採れた山菜や魚介類中心の懐石料理で、中々の美味だった。怯えて帰ったきた僕だったが、美味しい料理を堪能し、ひとまず心が安らいだのであった。
部屋では、一人分の布団が敷いてあった。窓からは例の海が見える……きまりが悪いと思い、カーテンを閉めようとした時に
「ーーコッチニコイ……オマエモコイ……」
また怨念のような声が聞こえる……この声のようなものは、一人のものではなく、老若男女の苦しみや憎悪のこもった悲鳴が、こだまするように聞こえるもので、自分の精神が擦り減るように浸食されていった。しかし、少女と出会ってから忘れていた自殺願望を思い出した僕は、海に行くことにした。あの海は僕を呼んでいる……
海へ近づくにつれて、声の大きさと周期は、大きくなって、早まっていく。
「コッチダ……生キルノハ、ツライダロウ……?」
「コッチニクレバ、浮世ノシガラミヲ断チ切レル……」
「生者ノ息ノ音ハウルサイ……」
僕は、例の海の岩場へと向かった。しかし、そこでは、死体のように白い何本もの腕の群れが、苦しそうに何かを探していた。彼らが探しているのは僕だ……!海から白い手が、僕の方に伸びてきた。僕は恐怖を感じ、逃げようとするが、一本の手に脚を掴まれてしまった……!すると他の腕も纏わり付くように僕の脚を強引に引っ張った。僕は岩場に体を打ち付けられながら海の中へと引きずりこまれてしまった……
ーー苦しい……こんなの不本意だ……そう思いながら寒い海へと沈んでゆく……暗い海は、闇と水の境界さえ曖昧だった。潮騒がいつもより焦燥に満ちていた。
……息ができない……息ができる……また息ができない……塩水を飲んでしまった……今度は息が吸えない…
息ができる時に、改めて思い知る。息の音は人の生きる証であり、そして、息ができることが、酸素をこの肺に取り込めることが、どれだけ心地よいことであったかということを。息の音が愛おしく感じる。生まれてから死ぬまで当たり前に感じていたことが、どれだけありがたかったかを感じ、僕は瞼を閉じた。真っ黒な海水に僕の走馬灯が浮かんだ……
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