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「今週は何か見た?例の夢」
恒例となった問いかけに、頬杖をついた義高が僅かに首をずらす。伸びた前髪の隙間から覗く瞳には、七日前の煌めきは見受けられなかった。光を失った虹彩はどんよりとして、いっそ絶望的といった風情だ。目の下の隈に強調された闇の中にも何もない。
元の彼に戻った、いや、より空虚な何かになってしまった。息を呑むと、義高が薄暗い笑みを浮かべる。
「死んだ」
誰が、とは訊かなかった。口うるさい目付役か、命を救ってやった民の一人か、義高本人かもしれない。いずれにしても、儚い夢が終わったのは確かだった。
「……えっと、その後は何か」
場違いなメロンソーダが立てるしゅわしゅわとした音が耳にうるさい。
なみなみとしたカップに指を掛けた義高は、揺らすばかりで口に運ぶつもりはないようだ。溢れそうで溢れないコーヒーは、綱渡りの危うさによく似ていた。
「真っ暗だ。もう、意味なんかねぇってことさ」
ああ、諦めちゃった。何がとはわからなかったが、漠然とそう思う。カップを揺らし続ける義高に、もう、夢の続きは必要ない。モノクロームの日常を映し取るコーヒーが全てを物語っていた。
互いに言葉を発しないまま、それぞれの岐路につく。義高の背筋はすっと伸び、何ものも寄せ付けぬ鋭さがあった。
遠くなる彼を見送って、私は黄昏に染まる街へと足を踏み出した。
築三十年を誇る木造の女子寮で、物音を立てないというのは実に重労働である。歩けば必ず軋む床や立て付けの悪くなった引き戸を何とかなだめすかす。
忍び足をさせた人物は、ただでさえ狭いシングルベッドの上で膝を抱えて丸くなっていた。
泥酔した義高を引きずって帰宅したのは成り行きだった。
数ヶ月ぶりに参加したクラスの飲み会ではち合わせたのが運の尽き。魅力的な客人にむらがる女、女、女。辟易を隠さない義高は、ビールのピッチャーを占領すると、彼女らと共にハイピッチでグラスを干した。策にはまった死屍累々は下心しかない男共に持ち帰られ、策に溺れた義高がまわってきたのが私である。
と言っても、私と彼は互いの家を行き来するような仲ではない。何となく気が咎めたものの、自宅に連れ帰る他、私に与えられた選択肢はないようだった。タクシーは既に深夜料金になっていたが、ワンメーターで収まってくれたことが唯一の救いだ。
「…………、め…」
不自然な体勢で首を擡げたせいか、顎の下が引きつった。
「何か言った?義高?」
ベッドの側へにじり寄るが、義高は胎児のような姿勢を崩さぬまま、寝息を立て続けている。黒髪の合間にある目蓋が動くのは、夢を見ているせいだろうか。
お世辞にも安らかとは言えない寝顔は、過度のアルコール摂取によって赤から白へ変色してしまっている。
細かな血管の透ける目蓋は相変わらず微動を繰り返していた。睫毛に近付くにつれ密集する紫の筋の一本一本に寂しさが伝わり、血液の流れに乗って全身を循環する。義高の睡眠は果てしなく妄想を掻き立たせ、見物人の哀切を誘った。
揺すってやるのが正解であっても、水曜の四限と喫茶店のみの間柄にはその資格すらない。孤独な線引きは義高の高潔さであり、踏み込まないからこそ、私はこの距離を許されている。
「あーあ」
馬鹿らしくなって横になれば、年季の入った部屋に不似合いなフローリングが背骨を刺激した。おそらく、改築の際に畳から無理矢理張り替えたのだ。
明かりの消えた室内は何処までも暗く、義高の視界を共有している心地になった。それでも、カーテンの隙間から差す街灯を拾う私は恵まれている。
枕代わりに宛てがった腕から頭蓋を介して筋肉の運動音が伝播する。今頃になって回り出した酒精が意識を一飲みにしようと怪獣のように大口を開けた。
不幸な赤子の傍らで見た夢は、記憶の欠片すら残らなかった。
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