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「ねぇ、覚えてる? 生まれた時のこととか」
「覚えてないわよ。そもそもそんなの覚えてる人、いないでしょ」
「でもさ。人間って、生まれた時からの記憶が、本当はぜんぶあるんだって」
「……嘘っぽい」
ベッドの上で、隣にいる彼の言葉を、あたしはそんな言葉でさっぱりと切り捨てた。
つもりだ。
彼はしょげるでもなく、怒るでもなく、いつものように「嘘じゃないよ」と微笑みながら言った。
「なかなか思い出せない、ってだけさ」
「だってあたし、生まれた時のことなんか覚えてないよ」
「少しずつことばを覚えたりして、頭の中でうまく記憶を呼び出す仕組みができあがると、生まれたばかりの頃に使ってた仕組みに上書きしちゃうんだって。だから子供の頃の記憶は思い出せないんだと」
「ふーん」
まあ、理屈としてはわからなくもない。
人間の記憶力が何年保つのか……とかなんて、医者でも学者でもなんでもないあたしにはよくわかんないけど、彼の言葉には不思議と「ふーん」と唸り声が出ちゃうような、不思議な説得力があった。
そんな彼の方に寝返りをころんと打って、訊いた。ほんの少し、汗のにおいが鼻先を撫でてゆく。
「なんで、そんなこと知ってんの」
「ん。昔、誰かに聞いたんだよ。それっぽいこと言ってるけど、正しいかは知らない。……でも、なんか納得できるだろ」
「うん」
「そのうちにぜったい、誰かに話したくなるさ。そしてそのたびに、俺のことを思い出すがいい」
「……なにそれ」
「それにあわせて、今日のこともその度に思い出せよ」
仰向けになっていた彼が、あたしの方へ向いて、少し頼りない太さの腕をのばしてくる。それを合図にして、そっと、身体を寄せた。
そりゃあ「覚えてない」なんて言えないよな。
もう大人だもの。
自分の身体に、他人に見えないタトゥーを彫られたような感覚を味わいながら、瞼を閉じた。
***
あー。
また、思い出しちゃったな。
「何が」
ベッドの上で、隣にいる男の言葉を耳にして、あたしは余計なモノローグを口走ってしまったことに気づく。
男のごつごつした手が、少し乱れたあたしの髪を撫でた。
「昔の男のことでも思い出したか」
「違う、違う。……昔に、誰かに聞いた話を思い出しただけ」
「誰だかは覚えてねえのかよ」
男はゲラゲラと大げさに笑ってみせたあと「どんな話さ」と食いついてきた。
「聞きたい?」
「ここまで来たら聞いてみたいもんだね」
「じゃあ、聞かせてあげましょう。そしてこの話を思い出すたび、あたしのことを思い出しなさい」
「なんだそりゃ」
未だにヘラヘラしているこの男は、あたしがいま放った言葉が、まだ冗談だと思っているらしい。
別にいいけど。
でも、きっとそのうち、この男にもあたしの気持ちがわかる日が来るはずだ。
はっはっは。
散らばれ、呪い。
唇を開く。
「ねぇ、覚えてる? 生まれた時のこととか」
「なんだよ、いきなり」
「人間って、生まれた時からの記憶が、本当はぜんぶあるんだって」
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