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第三話
金露宮──目がくらむような豪勢な金箔をふんだんに使ったその宮には、莫桂華が住む。桂妃と呼ばれる彼女は愛と知性に恵まれ、他国であれば傾城として皇帝の寵愛を一心に受けているであろうと囁かれるほどだった。
そんな桂妃へ書簡が渡ったのは、呪われし玄竜妃が後宮へ連れてこられた翌朝のこと。
多忙を極める皇帝が、直々に桂妃の元へ訪れる。後宮はまたたく間に浮足立った。女官はともかく侍女やその下の女たちもそわそわと落ち着きがない。
だが、当の桂妃は複雑な気持ちで受け取っていた。とにかく皇帝陛下を迎えるための準備で朝から忙しい。章丹の襦裙があちこちでひらひら舞う。一同、気の入り方が違う。
そんな中、宇静は書簡で伝えたとおり、きっかり定刻に現れた。昼も過ぎ、のどかな陽光が差す頃だった。
煌びやかな簪や耳飾りには丹桂を模した飾りがあしらわれており、光の加減で輝度が変わる。
部屋の中心で卓越しに彼らは向かい合っていた。
桂妃は若干の緊張を浮かべていた。普段は夢心地に垂れた目尻を持ち上げている。
「お話というのは、かの呪魂者のことでしょうか?」
「あぁ。さすがに耳が早い」
「その件について、陛下がお越しになることは予感しておりました」
桂妃は嘆息気味に言った。すると、宇静はわずかに目を細めた。
「私の目に狂いはないな」
「あら、ご冗談を。陛下と私は一度しかお会いしておりませんよ」
桂妃はぎこちなく笑った。
彼女は高位な身分の家柄だが、入宮の際に宇静へ拝謁したきり一度も会っていない。その頃から桂妃は彼からの寵愛を諦めていた。
「昨日から、この後宮は大騒ぎです。それもそのはず。ここ数十年は呪魂者が生まれたという記録はなく……私が生まれた頃にはとうに幻のような扱いでした。儀式など行わずとも、この世は安泰です。それなのに、今になってなぜ……」
「そなたもそう言うのだな」
宇静は嘲笑を飛ばした。その意味が分からず、桂妃は眉をひそめた。
「国は豊かになれど、呪いは現存するのですね。その琳香月とやらは、背に鱗を持つと?」
桂妃は思慮深く言った。妃の中でも優秀で勤勉な彼女は史伝を好み探求するという趣味がある。それゆえ、宇静の話もすんなりと解釈できる。だが、探求者ゆえに懐疑的でもあった。
「その琳香月に会ってみたくはないか?」
やにわに宇静が言う。これがまさしく本題だ。桂妃は瞠目した。
「私が会って、一体なんになりましょう。その娘は慣わしのとおり、玄竜神様に捧ぐのでしょう? 陛下はその娘に知恵を授けようとなさるおつもりでしょうが、私はその必要はないと思います」
桂妃は迷いつつも静かに言い放った。瞬間、その場に控えていた女官や衛尉らが息を飲んだ。
宇静へ意見するというのはことさら恐ろしいのだ。それは桂妃であっても同じことだった。彼の命令ならば絶対であり、どんなに黒であろうとも白と答えなければならない。そんな暗黙が破られている。
しかし、皆が思うよりも宇静は平静だった。
「ともかく、会ってみてくれ」
「陛下、しかし」
「良いな、桂妃。あの娘に後宮のしきたりなどを教えてやれ」
宇静はもう用済みだとばかりに席を立った。桂妃も堪らず立ち上がり、彼の後を追うも逆らうことはできなかった。
「承知いたしました」
***
後宮へ入ったものの、華やかな生活は皆無であり、ただ粛々と日だけが過ぎていく。
香月は部屋の中で食事を済ませた後は、とくに何もすることがなく、じっとうずくまるばかりだった。食事の支度をする下女らは絶対に目を合わせようとせず、香月もまた遠慮していた。そもそも、人と会話することすらおこがましいのだと思っていた。
場所が変わっただけで生活はいつもと変わらない。変わったことと言えば、夢の内容がわずかに変化したことだった。
香月は今朝見た夢を脳内で複写した。見えたのは白壁の門。そこには淡紅色の花が咲き乱れている。そこで少女が誰かを待っていた。
「香月」
名を呼ばれる。少女は親しげに手を振った。その相手は、翡翠の衣をまとった青年だった。そして、二人は月下を走る。
──誰なんだろう、あの人は。
夢はいくらか優しげだった。あの儀式めいた物々しい場ではなく、密やかで静寂な夜だった。
「彼女はあの人と一緒に逃げたのかもしれない」
香月は考えを絞り出して呟いた。
逃げた。どこへ。どうして逃げた。それは──死にたくないから?
安易な考えだろうか。しかし、それしか思いつかない。
すると、不意に廊下の向こうが騒がしくなった。夕餉の刻かと思ったが、部屋の前に下女ではない誰かが現れる。煌びやかに着飾った章丹の襦裙に、うず高く髪を結い上げた女性がいる。思わずため息がこぼれそうなほど美しいその人は眉をひそめて香月を見下ろした。
「そなたが琳香月?」
女性は囁くように小さな声音で言った。甘やかにしっとりとした優しさを湛える。圧倒的な美しさを前にし、香月は思わず平伏した。
「はい」
「こなたは桂妃と申す。琳香月、面を上げなさい」
その言葉に香月はゆるゆると顔を上げた。桂妃はたおやかに笑み、香月の部屋に入った。後ろに控える女官たちが何か言いたそうに口を開けるも、何も言えずにいる。
その様子を察した香月は思わず両手を広げて桂妃の行く手を遮った。
「あ、あの! 私に近づかないほうがいいと思います……」
「こなたは陛下から命を受け参ったのです。そなたにしきたりを教えるようにと」
「でしたら、私から行きます。だって、なんだか悪いもの」
「悪い、というのは遠慮しているということ? その必要はなくてよ。もっとも、そなたはこの部屋から出ることは許されない」
「あっ……そうでした……」
香月はうなだれた。こんなにも身分の高い人を招くような格好はなんとなく居心地が悪く、いくら礼儀知らずと言えども、無礼であることを察した。また、この部屋から出ることが許されないという事実が明白となり、香月はさらにふさぎ込む。
「私は儀式のために生かされているのですね?」
なんとなく口をついて出た言葉に、桂妃は両目を瞬いた。
「儀式のことを知っているの?」
「いいえ。あまり知りません。でも〝その日〟が来れば、私は玄竜神様に捧げられるのでしょう。なんとなく、その予感はありました」
「そう……」
桂妃は気の毒そうに顔をしかめた。そして、香月に近づく。
「陛下のお考えはよく分かりませんが、もしかすると玄竜神様へその身を捧げる時に無知であるのは良くないことなのでしょうね」
「そうかもしれませんね」
香月は頷いた。すると、桂妃は迷いなく香月の手を握る。それは今までに感じたことのないとてもあたたかで、ふっくらと柔らかな手だった。
それから、七日に一度だけ昼の刻に桂妃が訪れることになった。
後宮でのしきたり──妃への言葉遣い、礼儀作法をみっちり叩き込まれる。香月は少しでも桂妃の目に触れる間は彼女へ最大の敬意を払った。
後宮に他の妃も複数いること、宮中のおおまかな造り、話し方、食事の仕方、茶の飲み方、学ぶものはとても多い。香月は毎度、頭がパンパンに膨れ上がりそうなほどの知識を蓄えた。
常識を習得した頃には、ひとりで化粧を施すこともできるようになったが、桂妃にしか見せることがないので、どれもこれも不必要なものではないかと訝しんでいる。
「これで、ようやく人並みかしら。前は獣と似ても似つかないほどだったのにね」
五度目の面会では桂妃もすっかり馴染み、口調もくだけて楽しげだった。
香月は支給された銀箔の襦裙に質素な髪飾りをつけ、淑やかに背筋を伸ばしている。笑い方も教わったとおりにし、それでもぎこちなく微笑みを向ける。
「桂妃様には恩義を返し尽くせません。まことにありがとうございました」
「あら、何を言っているの。儀式までまだ日はあるわ」
香月は茉莉花茶を湯呑に注いだ。桂妃からの戴き物である華やかな茶がふうわりと天井へ舞う。その薫りを楽しむように桂妃が言った。
「では、私の願いを聞いてくれるかしら?」
「願い、ですか?」
香月はきょとんと目を丸くした。茶をこぼしかけるも、なんとか大事には至らなかった。そんな香月を面白そうに見る桂妃は、茶をゆっくり飲んで喉を潤す。
「私の家は代々、皇帝陛下の元で占いや儀式の手助けする系譜でね。でも、三〇〇年ほど前にそのお役目が外れてしまったのよ。その後、世は戦をするようになり、国土を広げていったわ。一方で私たちは玄竜神様への儀を欠くことがないよう、史伝を受け継いできたのよ」
「はぁ」
途方もない話だ。香月は不可解なままで相槌を打つ。そんな香月を見透かした桂妃は困ったように笑い、なおも続けた。
「史伝には呪いも記されているわ。呪われし玄竜妃の伝説──その呪いの根源がなんなのか、それを解明するのが私の使命でもある。というのは建前で、興味があるの」
「興味ですか……こんな私に興味を持っていただけるなんて、なんだか夢のようです」
香月は前向きに受け取った。桂妃はとてもおおらかで優しい。神々しささえ思わせる。そんな憧憬とも言うべき人から興味を持ってもらうなんて恐れ多い。香月は目を伏せた。
すると、桂妃は香月の手を取った。
「これは、おそらく陛下のお役にも立てるはずだわ。協力してくれる?」
「もちろんです。桂妃様のお役に、陛下のお役にも立てるなら本望でございます」
「それは良かった」
桂妃は「ふふふ」といたずらっぽく笑った。
そして、彼女はふと視線を外へ向ける。開け放った扉の向こうには翡翠色の苑がある。ここは城の西に位置し、花々の向こうに湖があるのだが、そこに掛かった橋の中腹に、袍をまとった男がひとり立っていた。
「陛下!?」
桂妃が驚いて立ち上がる。香月もその脇から目を向けた。
その人は、遠くから見ても高貴で端麗であることが窺える。こちらを見ているのか、それとも湖を見ているのか判然としない。やがて彼は橋を渡り、姿を消した。
「珍しいこともあるものだわ……あの陛下がこの苑にいらっしゃるなんて」
「そうなのですか? しかし、皇帝陛下ならばこの後宮へ参られるのもお仕事のうちだと、桂妃がおっしゃいましたよ」
香月は覚えたての知識を述べた。すると、桂妃は目を細めた。湯呑を揉み、悩ましそうに唇を噛む。
「そうね。でも、陛下は戦ばかりでお世継ぎのことなんてちっとも考えていらっしゃらないのよ。誰も逆らえないから、急がせる人もいない……あぁ、秋叡様だけは少し違うみたいだわ」
香月は「あぁ」と相槌を打った。彼のことは知っている、という意味を含めている。すると、桂妃も軽快に話をしてくれた。
「陛下とは幼い頃から親しいらしいわ」
「そうなのですね」
「そんなお方でも、陛下のお心に近づくのは難儀らしいのだけれど……陛下にはそろそろお世継ぎのことを考えてもらいたいものだわ。これは、皆が思っていることよ」
「そうですね……」
香月はぼんやりと返事した。
尹宇静の姿を見たのは二度目だ。一度目は背中の鱗が熱を帯び、まともに見ることができなかった。しかし、先ほどはあまり感じなかったように思う。
「陛下のお顔を一度だけしっかり見ました。でも、この黒鱗がとても熱くなって……あまりの痛みに気を失ってしまったのです」
言いながら宇静の顔を思い出す。すると、なんだか背中の鱗が逆立った。思わず手をやり、さする。
その動作を見た桂妃は静かに唸った。あまり共感的な声ではなく、わずかに固い。そんな桂妃に構わず、香月は身を乗り出して訊く。
「この呪いは陛下にも関係が深いのでしょうか?」
しかし、その答えは返ってこない。桂妃は動揺しているのか、瞳を揺らがせた。
「そのお話はまた次にしましょう」
それから彼女は、逃げるように部屋を出て行った。
***
香月はその日は、脳内がほわほわと浮かれ気味だった。寝台に横たえてもなかなか寝付けない。こんな気持ちになるのは生まれてはじめてだ。
宇静と呪いの関係、桂妃の願い、そして祖であるもうひとりの香月。すべてが繋がるようで繋がらない、点と線が一向に交わらない。
──気にならないのか?
突如、鄭秋叡の言葉が唐突に脳裏によみがえる。
知を得た今、これまでの生活があまりにも粗末で人間と思えぬほど蔑まれていたのだと分かった。それでもなお、神に身を捧げなくてはならないことは深く心に刻みこまれている。では、なぜ宇静は香月に知を与えようとするのか。
落ち着かない胸を抑え、ぎゅっと目を閉じた。このところ背の鱗を布に当てると痛むので、壁を向いて眠るようにしている。
次の面会では玄竜妃や呪いのあらましを聞くことができる。そうすれば、あの夢の正体もつかめるだろう。深く呼吸し、夢の中へ潜り込んだ。
白壁をくり抜いたような門は、おそらくどこかの屋敷であると推察する。さらに夢の深淵へ潜れば、周囲がようやく鮮明に描き出された。それまでは彼女の歩く道にしか色がなく、白あるいは黒であった。描き出された世界は後宮の苑にある翡翠の湖を思わせる。
その橋で香月は青年の手を取った。彼もまたしっかりと握り返してくれる。
「香月、逃げよう。君を失うのは嫌なんだ」
彼は言った。顔が見えない。香月は首を振った。
「そんなこと、できないわ。玄竜神様は許してくださらないもの」
「覚悟の上だ。たとえ、神や掟にそむこうとも、僕は君と共に在りたい」
「劉帆……」
香月は口元が引きつった。彼の名を呼ぶと、心の奥に仕舞っていた恐怖が溢れ出す。いてもたってもいられず彼の胸に飛び込み、声を殺して泣いた。
「私だって嫌よ。怖い。でも、逃げたらどんな罰が降るか……あなたも無事では済まないそれが分かっているのに、私はあなたと共に生きたいと願っているの」
「それでいい。その心が本物だ。香月、僕は君を守る。だから、逃げよう」
劉帆は香月を抱きしめて言った。心に溜まった何かが晴れていく。彼の言葉とぬくもりによって浄化されていく。この時間が永遠に続けばいい。そんな甘く切ない感情が爆発する。
暗転。
景色は月下へ移った。香月は息を切らして森林の中を走った。劉帆に手を引かれながら走る。走る。体の中が壊れそうなほど冷たい空気に満たされていた。
──もうダメだわ……。
夢の中の自分か、それとも今の自分か、脳裏の中で警告が点滅する。力が抜け、膝がガクンと崩れ落ちた。
「香月!」
劉帆が叫ぶ。すると、彼の胸に矢が突き刺さった。香月の目前で倒れていく。離れた手が宙を舞い、真っ白な月を背景に黒いしぶきが上がる。浴びる。香月は呆然と彼の絶命を見た。
叫ぶ。喉の奥が震え、言葉ですらない叫びを上げる。それを封じるかのように衛吏たちの手が伸びる。乱雑に揉まれ、腕を縛られる。
こうなることは分かっていた。しかし、わずかな希望を捨てきれずにいた。その甘さに足元を掬われたのだ。彼はもう還ってこない。
「気は済んだか?」
やがて、目の前に誰かが立つ。香月は気力を失い、地に伏していた。すると髪を掴み上げられ、無理矢理に目を合わされる。心臓が跳ね上がりそうなほど驚愕した。
冷たく氷のような目を持つその人は──尹宇静だった。
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