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ああ、あ、あああ。
俺にもこんな感情があったのかあ。
溺れ溺れて沈み込んじまうよう。
闇の中に引きずり込まれて
なにか、開いた。
【溺れ咲き】
確かに「その気」は俺の中にあった。
男の鎖骨、喉仏、項。
汗ばんだ額に俺は何かを感じる。胸のどこかの一片を誰かが甘噛みするような感覚。
知らない振りをしてはその感覚が通り過ぎるのをただ、待つのだ。
「パパさ、もう少し稼げる仕事選びなよ。折角弁護士なんだからさあ」
「ん…、稼いでるじゃないか。なんだかよくわからねえが、学費だけはお高い美術大学にお前を通わせられる位には儲けていると思うけど」
「だからあ、そうじゃないんだって。うちのクラスの子にも弁護士の子供いるけど、大手企業の顧問とかってすごい儲かるわけですよ。パパもそういう仕事やればいいじゃん。国選弁護士とかさ、貧乏人相手じゃなくて…」
「ガキがそういう事に口を出すんじゃありませんよ。おい母さん、俺にも珈琲くれ、…くださいよ」
「だってさあ…。パパってなんだか、うーん、なんだかさあ。枯れてんじゃん。まだ48なのに、もうおじいちゃんみたいだよ。その友達のお父さんなんかパパより年上なのにすごいかっこいいんだよ?パパのコートなんてペラペラのウンコ色じゃん!」
「こら!カーキといいなさいカーキと!とにかく、いいんだよ。俺は俺で満足してるんだよ。大体な、母さんだって俺みたいな枯れてる位が好きなの!バリバリだったら美沙、お前。知らない間に兄弟ができているかも知れねえんだぞ?どうする、明日息子だか娘だか連れてきて、明日から家族が増えますなんか言われたいのか、ん?」
「それはちょっと極端過ぎだけど、ねえ、ママ?」
「そうねえ、昔はお父さんも、んー、まだ人並みに油はのっていたのだけど、今じゃなんだか出汁をとり終わった鶏ガラみたいだものねえ。私もちょっと、今のお父さんは悲しすぎると思うわ」
「お前ねえ…」
そう言って俺は優しく微笑む女房が差し出したちっとも美味くない珈琲を啜る。
俺は実は二度焙煎のお高いコーヒーが苦手だ。色水のような薄いアメリカンがよい。
日の当たるリビング、年頃の娘と、女としては見れなくなった妻とテーブルを囲んで朝食を取るなんでもない平日。息子はもう家を出て数年立つ。帰ってくるのは正月と盆だけだ。きっと二、三年もすれば娘も出ていき、俺は優しくて平凡な女と二人きりで平穏な暮らしをするのだろうと思う。定年を迎えてもきっとまずい珈琲を啜るのだろう。
(つまらねえなあ)
そう思っても、これが普通なのだ。これが、普通の生活で俺はきっとこの平坦な道を歩んでいくしかないと思っていた。
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