溺れ咲き

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その日もいつもと変わらなかった。 いつもの俺、いつもの仕事、いつもの同僚…。小さな弁護士事務所の片隅で、俺は世間では弱者と呼ばれる人間の処理をする。 人には人の役割がある。俺の部屋の壁一枚隔てたところでは、会社顧問だのをしている男が働いている。 給料はきっと違うだろうな、と思いながらも俺はそういった仕事を敬遠してきたのだ。 「合わねえんだよな。それだったら離婚問題とかさ、借金のトラブルで小銭稼いでいるほうがよっぽど気が楽だよ」 「そういうもんですかあ。神原先生だったら実力はあるのにね、それをなかなか出そうとしないから。皆言っていますよ、七年前の公害事件の訴訟。あの時の神原が本物だって」 「ああ、ああ。やめてくれよ。みいんな、噂するから鰯位の真実が七年泳いで鯛になっちまった。俺はね、いいの。黙って小さい事件扱って、定年迎えて、女房と世界一周の旅に行くのが夢なんだから」 「欲がないんですねえ」 「欲望は、いかんよ」 「いけませんか」 「いけないねえ。欲がありゃあ、もっと欲しくなるだろう?手に入れたらもっと、もっとだ。これくらいあれば十分だ、と決めておいて暮らせば無駄な労力もねえし、平穏なのよ」 「仙人みたいだなあ」 「俺は霞じゃ食っていけねえぞ。このブリ大根定食くらいは食べないと」 「僕はチキンカツ定食ですね、はは」 そう言いながら俺と後輩の森田は昼飯を職場の近くの定食屋でとっていた。森田がそういえば、と呟く。 「今日、大きい仕事が入りそうですよ」 「へえ。また近藤か」 「いえ、若先生の同級生だそうで。あの、ホテルの割引券もらったことありましたよね」 「ああ、リゾートの。なんだっけ、桜井リゾートとか」 「そうそう。結構大きなグループのね。その若社長が顧問を探しているんですよ」 「なんでまたそんな企業さんが小さい弁護士事務所に来るんだよ。どうせ、公にできないような問題の相談だろうが」 「ああー、そうかもしれませんね。まだ38歳らしいですしね」 「ふうん。年収一億位あったら、おねーちゃんのケツ触り放題だな」 「むしろ女から脱ぎますよ。ケツどころか股開きますよ」 「そりゃそうだわ」 馬鹿な話をしながら店を出る。徒歩二、三分で職場につく。森田はコンビニに行くと言ったので、俺は先に帰ることにした。 2月の肌寒い空気が、バーゲンで買った薄いコートを通って俺を震え上がらせた。 珈琲でも飲むか、と職場に帰ってインスタント珈琲の瓶を手にしたとき、応接間のドアが開いた。 まず、ここの代表弁護士の大沢が出てきた。それから、身なりの整った男がゆっくりと、笑いながら出てきた。 豊かな黒髪に、しっかりと筋肉のついた体だと一目で解る体に上質なスーツを纏っている。その男と一瞬目が合った。 ガリ、と誰かが俺の心臓を噛んだ。 俺は少し体が跳ねた。だが、一瞬のことだ。頭だけでお辞儀をして、なんでもないようにインスタント珈琲の瓶の蓋をあける。 胸がいつもより早い鼓動を打っていることに、俺だけが気づいている。
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