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奴が指定したレストランに行くと、桜井は席に着いていて、どうも、と右手を上げた。
俺は相変わらずの安いスーツで、高級なレストランの中で浮いていると思った。
「どうもありがとうございました、神原さん。おかげで助かりましたよ」
「いえ、仕事なもんで」
「どうぞお座りください。食事に付き合っていただきたい」
「いや、俺は」
「もう注文してありますから、どうぞ」
「…あんたは」
「はい」
「強引だな」
「神原さんは私の事が苦手でしょうから。お互いの距離を近づけるにはどちらかが歩み寄らねばならんでしょう」
「いや…仕事は終わった」
「では、次の仕事を依頼しましょうか」
俺は余裕たっぷりの男に根負けをして、席に座った。予想通り、美しい盛りつけの料理が並ぶ。俺の見たことのない食べ物。
味の感想は、うまいか、まずいか。
だが、これを食べてもいつもの定食屋のほうがうまいな、と思ってしまう俺は舌が馬鹿なんだと思う。
メインディッシュを食べ終えて、次の料理を待つ頃、ときに、と奴は言った。
「ときに神原さん。奥さんとはご無沙汰ですか」
「…まあ長年連れ添ってきましたからね。それなりにはありますけど。…どうして」
「失礼ですが、爪を、」
はっ、としてから俺は赤くなった。いや、恥ずかしい訳ではない。こいつがこの時にも俺の性生活まで想像していることに、なんだか赤くなったのだ。
女房とは何年もご無沙汰だった。だから、手の爪も、長く伸びていた。
反射的に奴の指を見る。すると綺麗に切り揃えられていた。いつ何時、女との情事に備えて、女のあそこに指を入れてもいいように…
(いや、女だけではないかもしれない)
そんな考えが脳裏に浮かんで俺は思わず首を振った。
クス…。
笑い声が聞こえた。桜井を見ると、俺を見て笑っていた。俺が何かを言おうとすると、桜井はそれを遮る。
「食事が終わったら、バーにでも行きましょう。ここのホテルは実にいいバーテンダーを雇っています。きっとオーナーの趣味がいいんでしょう」
…馬鹿野郎、と怒鳴りたくなった。
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