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ある朝、俺は朝食をとっていた。家族と一緒にパンを齧っていた。女房と娘が微笑んでいる。俺は笑っていない。優しい娘が俺の表情を心配している。だから、口を開いた。
「あのな、お前らに話があるんだ」
「なあに、パパ」
「母さんも座ってくれ」
家族がテーブルに座った所で離婚届をテーブルに置いた。
「悪いが別れよう」
「どうして、パパ!まさか浮気」
「いや、違うんだよ。全然違う。お前たちに迷惑をかけたくないから、黙って別れてくれねえか。家もやるよ、貯金もやる。アパートを借りたんだ。だから、頼む」
「…お父さん仕事でなにかあったの?そうでしょう?」
優しい女が涙をこらえて笑う。
俺はつまんねえな、とだけ思う。
黙ってサインをする女房。
それでも家族よね、と元女房が言う。
俺は頷く。
ああ、つまんねえ家族だった、と俺は役所に向かいながら清々した気分になった。
お前!
と酷く狼狽した声が裁判所の中で響く。
「どうしてお前がそちら側なんだ!」
いつも自信に満ち溢れている男が俺を見てうろたえている。
裁判官が静粛に、と言う。
俺は男に微笑みかけた。
「訴訟は実は、一番得意でね。俺は弱者の味方なんですよ、桜井さん」
男は唖然としている。嗚呼、ぞくぞくするねえ。俺って実はこういう男なのかもしれない。俺の隣に座っている、訴えた住民達の代表に呟いた。
「大丈夫ですよ。ケツの毛までむしり取ってやりましょう」
「本当に大丈夫なんですか。相手は弁護団ですよ」
「なあに、結局は経験と場数です。俺はその点では優秀ですよ。だから自ら貴方たちの弁護を引き受けたんだ。前の先生じゃ絶対に無理ですからね」
「お願いします、先生」
なあに、俺も欲しいものがあるんですよ。
それはあの格好つけた男です。
あいつじゃなければいけないのです。
アパートを借りました。
年代物のボロアパートです。
そこにあいつを招きたいのです。
一生俺にすがらせておきたいのです。
あいつは俺を夢中にさせました。
男が男に溺れるということは。
また、どちらも闇の中に引きずり込まれるかもしれない可能性があるということです。
(嗚呼、楽しいなあ)
俺は今の自分にとても満足していて、笑いがいつまでもとまらなかった。
【溺れ咲き】完
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