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「ねぇ、覚えておりますか?貴方が――」
私を井戸に突き落とした日の事を。
あれは雪のしんしんと降る夜でございました。
雪の粒一つ一つが大きくて、段々と積もってゆくその音まで聞こえてきそうな、そんな青白い夜でございました。
“これでは明日の朝、雪かきが大変でしょうね”と私が言うと貴方は、
「お前は心配しなくて大丈夫だ」
と言ってくれたのです。
「そうだ水を汲んできておくれ。こっちの井戸は凍り始めているから、向こうの古井戸の方から汲むといい。いや――少し遠いから俺も手伝おう」
女房の仕事を手伝ってくれる。その優しさがとても暖かく思ったのを今でも覚えております。
しかし、そこで起きた事をすっかり忘れ去っていた私は、何の疑いも無く畑の端にある古井戸へと向かったのです。
長い間使っていなかった古井戸は、屋根組みも傾き、鶴瓶も使えるかどうか不安になる有様でございました。
そして漸く思い出したのです。
底を覗き込んでも暗い水が見えるばかり。でも汲めない。
この水を汲んではいけない。腐っているのを知っているから。
さてどうしたらよいものやらと井戸の縁で悩み込んでいるところへ。貴方の手が私の背中に触れ、そのままどんと押し出されたのです。
穴の中を彼方此方に体を擦りながら、殆ど水の無い井戸の底に、私は落ちました。
驚き。あの時はそれしかありませんでした。
この場所は――
私が姑を殺した場所であり、やり方も季節の頃まで同じだったのですから。
あの夜は、水気が多く重い雪の粒がぼたぼたと落ちてくる様な、そんな酷い雪の降り方でございました。
身重だった私はあの日、わざわざ遠くにあるこの井戸から水を汲んで来いと姑に言われ、素直にそれに従いました。
ですが水を汲んで帰ろうとしたとき、私は急に腹が痛くなり、その場から動けなくなっておりました。
背や頭に積もる雪も掃えずに蹲っていると、苦い顔をした姑がこちらに向かってくるのが見えました。背を丸めて縮こまる私を見て、姑がその顔をさらに顰めます
「このくらい出来ないで百姓の嫁が務まると思ってんのかい、全く使えない悪場擦れだね。さっさと立ちな。このまま井戸に突き落としちまうよ」
この程度の悪口なら、いつもは黙って堪えていられたのです。いつもであれば。
けど蹲る私の背中を踏みつける姑の足の裏。そのじわじわとした体温が体に染みてくるのが。
――堪らなく気持ち悪かったのです。
姑が私の中に入り込んでくる気がして。姑が私を通り越して胎のややこに浸み込んでゆきそうで。その気持ち悪さに気が違いそうだったのです。
私は勢いよく体を起こしました。それだけです。それだけで済んだのです。
姑は踏まれた猫のようなおかしな声を上げ、古井戸の縁に頭を強かにぶつけ、そのまま井戸の中へと落ちたのです。
私は井戸を覗き込みました。
井戸の底には首と足が変な方向に曲がった姑が、口から汚らしい泡を吹いて転がっていました。
それを見た私は、姑が間違って息を吹き返して登って来られないよう鶴瓶を引き上げ、手近な石礫を何個も何個も井戸の底に投げ付けたのでございます。
非道と思われるのでしょう。鬼と蔑まれるでしょう。
ですが私もこの地獄から逃れたくて必死だったのです。
必死で必死で――
気が付いたら姑を殺していたのでございます。
その結果が――お慕いしている貴方様から井戸に放り込まれるという仕打ち。
地獄から抜け出そうともがき続け、結局地獄に落ちるとは、これが因果というものなのでございましょうか。
落ち方がよろしかったのでしょうか。姑とは違い私は五体満足でした。
私はようやく許しを請いました。非道い事をしました。堪忍して下さい。と何度も叫びました。ですが貴方は、
「かかぁもそうやって殺したんだろ。そのまま死にやがれこの『飛縁魔』め」
と、そう私を罵り、そのまま行ってしまわれたのでございます。
丙午に生まれたそれだけの事だのに。どうしてここまで私に辛く当たるのだ。最初に虐げられていたのは私の方だ。居ない方が良い奴を始末しただけなのに。何と非道い仕打ちをしてくれたのだ、と怨みもしました。呪いもしました。よくもやったな。よくも姑と同じ場所に突き落としてくれたなと。
ですが長い間、井戸の底で丸く切り取られた空の変わり様を眺めているうちに、その心持も変わってきたのです。
此処に居れば、いつか貴方は必ず会いに来てくれるのですから。
最初に会いに来てくれたのは、私が井戸の底で年を数える様になって何年も過ぎた頃でしたでしょうか。
いつの間にか髭を蓄えるようになっていた貴方を見つけた私は必死で井戸の壁を這い登り、声にならぬ声をあげながら飛びつきました。
久しぶりに触れるあなたの肉は柔らかく、血はとても暖かく、ふうわりと私を慰めてくれたのです。
それから貴方は何度も何度も私の所へ来てくれました。
その度に私は貴方を井戸に引きずり込んではその肉を。骨を愛で続けています。
例え顔を変えようが、齢が違おうが血の匂いが変わろうが、この井戸を気にして訪れる男は貴方様だけです。
お陰でこの井戸には幾つもの貴方の骨が折り重なっております。
姑の骨もあるとは思うのですが、最早どれが姑の骨なのか区別がつきません。腹が減って食ろうた気もしますがぼうやりとしか覚えてございません。
何度も何度も井戸の底で貴方様との逢瀬を重ねるうち、とうとう天井には厚い岩の板が敷かれてしまいましたが、いつか貴方がこの岩戸を開け、顔を覗かせてくれる日が来るのを信じております。
ところで――
覚えておりますか?貴方はどんな顔をしていらしたか。
明瞭と覚えております。貴方はこの井戸に敷き詰められた白い髑髏と同じ顔。
覚えておりますか?私がどんな顔をしているか。
明瞭と覚えております。私はこの井戸に敷き詰められた白い髑髏と同じ顔。
覚えておりますか?貴方様がこの井戸で何度私に殺されたのか。
私はもう――覚えておりませぬ。
覚えておりますか?私が何故この場で貴方様を怨み続けているのか。
私はもう――覚えておりませぬ。
今昔百鬼拾遺より『狂骨』
―狂骨は井中の白骨なり
世の諺に甚だしき事をきょうこつと言うも
この怨みの甚だしきより言うならん
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