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「ねえ、覚えてる?」
その言葉は乾いた土が水を吸い込むように、僕の脳内の端から端まで染み渡り、やがて意味をなして僕のもとに届いた。
うん、と言いたかった。目の前の知らない女性が涙をこらえながら、そう問いかけてくるものだから期待に応えたいと思わないほうが変だ。でも、僕にこの人の記憶はない。
女性に手渡された鏡に映し出された自分と思しき男の顔を見ても「ああそうですか」としか言えない。どうせならイケメンが良かったが、どこにでもいそうな冴えない男でがっかりした。
それにしてもこの女性と僕の関係はなんだろうか。女性は終始僕に対してタメ口であるし、ただの知り合いにしては距離が近い気がするが、だからといってそれが僕の記憶を思い出す手がかりにはならない。
女性はふるふると首を横に振った。
「わからないのね」
「できれば思い出したいですけど」
「体に異常ない?」
僕は手のひらを握ったり開いたりしてみる。
「とくに。ただ、手足が冷たくてちょっと痛いです」
「そうよね。もっと部屋を温めましょ」
女性は少し俯きながら暖房の温度を上げた。
「あの、ここはどこですか」
「あなたの家よ」
僕は息をのみ、狐につままれたように呆然と部屋の中を目で追った。この女性は嘘を言っているのではないか。例えば、彼女が誘拐犯でなんらかの過程で僕は記憶喪失になった。そこで彼女はわざと善人を演じて僕を安心させて信頼を得ようとしている、とか。
いいや馬鹿げている、とサイドテーブルに置いてあった温かいお茶を口に含む。ちょうどよい熱さの香ばしい液体が鼻と喉を通り抜けていった。
「……おいしい」
「棒茶。あなたが好きなお茶だったから」
「へえ、こういうのが好きだったんですね」
「ほんと他人事ね」
女性ははにかんだように笑い、まだ湯呑みの半分以上もお茶が入っているというのに半ば強引にお茶を注いだ。急に熱を帯びた湯飲みは手から滑り落ちていき、重力に抵抗する間もなく棒茶はやわらかなブランケットの上にこぼれた。
「ごめんなさい!私ったら調子に乗っちゃって。今拭くものを持ってくるから待ってて」
女性はブランケットを器用に巻き上げると慌てた様子で部屋から出て行った。でも、ブランケットを胸の辺りまで被っていた僕自身に棒茶はかかっていない。
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